進化生物学者で総合研究大学院大学学長の長谷川眞理子さんのお薦め本、2回目は、 『この世界を知るための人類と科学の400万年史』 (レナード・ムロディナウ著/水谷淳訳/河出文庫)。人類史と科学史の400万年を、学問分野の垣根を越えた「ビッグヒストリー」として壮大に描きます。科学上の大発見が、ガリレオやニュートンなど少数の天才だけでもたらされたわけではないことがよく分かります。

分野を超えた「ビッグヒストリー」

 10年ほど前から、「ビッグヒストリー」という言い方が流行するようになりました。限られた地域、限られた時間の歴史ではなく、宇宙の起源までさかのぼってあらゆる事象を俯瞰(ふかん)的に捉え直そうという試みです。

 従来の歴史研究は、人類学、考古学、歴史学といった分野に分断されていました。人類学は何百万年という生物の進化をもとにした学問で、骨しか出てこないような時代が主な研究対象です。それに対して考古学は、数万年前以降、人類の遺物や遺構などを研究しています。そして歴史学は人文系で、有史以降の文書史料から歴史を考察する学問です。

「こんな今だからこそ読んでほしい」と話す長谷川眞理子さん
「こんな今だからこそ読んでほしい」と話す長谷川眞理子さん
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 つまり、それぞれ時代も研究対象もズレていたため、特に交流はありませんでした。学問として、通史的に人間がいかに生きてきたかを見ることはなかった。そこに登場したのがビッグヒストリーというわけです。

四半期決算ばかり気にしない

 以前、こういう話を財界の方々にしたところ、「自分たちは四半期決算でやっているんだから、そんな悠長なことは言っていられない」と冗談半分に言われたことがあります。確かに短期で結果を求められるのが企業の宿命でしょう。しかし私は、「どこかでビッグヒストリーを持たないと、そのうち足をすくわれますよ」と申し上げておきました。

 学校で学ぶ歴史といえば、古代文明あたりから始まり、現代史は時間切れになって終わるというのがパターンです。それ自体も問題ですが、実はその営みは、ビッグヒストリーの中で見ればごく一部でしかありません。まして科学や技術を発展させて今日に至るまでは、直近の1%程度の出来事です。そういう長い進化の歴史を知れば、今の私たちの生活が生物としていかに不自然かに気づけるでしょう。

 ブームもあって、ビッグヒストリーに関連する本は多数出版されています。どれもそれぞれに視点があって面白いと思いますが、まずは『この世界を知るための人類と科学の400万年史』をお薦めしたい。著者はアメリカの物理学者で、テレビドラマ「新スタートレック」の脚本も手掛けるなど多才な方のようです。どうすれば多くの視聴者(読者)を楽しませることができるか、よく心得ているのでしょう。

 だから同書も、決して堅苦しい科学史ではありません。「400万年」とは、人類の祖先であるアウストラロピテクス(猿人)が初めて地球上に登場したと推計される時代から今日までの長さを指します。そこを出発点として、さまざまなエピソードや比喩を交えながら、人類全体の歴史と科学の進歩、その時々に画期的な変化をもたらした数々の科学者の評伝をつづっているわけです。

「ビッグヒストリー」を解説する『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
「ビッグヒストリー」を解説する『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
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処刑された「近代化学の父」

 例えば16世紀半ばにイタリアで生まれたガリレオ・ガリレイが、コペルニクスの唱えた地動説を継承して教会と対立したことは有名でしょう。自らが作った望遠鏡で天体観測を続け、自説の正しさを確信するわけですが、結局は教会の圧力に屈してすべて放棄することを宣誓させられます。

 ただ最晩年、軟禁中にひそかに書いた『新科学対話』はガリレオ最高の名著とされ、その後のアイザック・ニュートンをはじめとする科学者に多大な影響を及ぼしました。

 また、そのニュートンの物理学に刺激を受けた1人が、18世紀フランスの化学者ラヴォアジェです。「質量保存の法則」の生みの親であり、「近代化学の父」とも呼ばれています。ただし、実験の資金を捻出するために徴税請負人の仕事も行っていたため、フランス革命の勃発によって一般大衆の敵と見なされ、断頭台で処刑されることになります。革命の直前に刊行された著書『化学原論』は、近代化学の最初の教科書とされています。

 歴史に名を残す科学者は突如出現したわけではありませんし、その発見は社会から隔絶された場所で生み出されたわけでもありません。時々の社会と摩擦を起こしつつも発見や発明が積み重なり、人々の意識や社会を進歩させてきたのです。その大きな物語を、この本から読み解くことができると思います。

「科学史だけを扱っているわけではないので、読みやすい本です」
「科学史だけを扱っているわけではないので、読みやすい本です」
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直近の100年がいかに異常か

 そしてもう一つ、この本は時系列に沿って3部構成になっています。第1部は400万年前から約2400年前の古代ギリシャ・アリストテレスの時代まで、第2部はそれ以降の古代ローマの時代からダーウィンが進化論を唱えた19世紀半ばまで、そして第3部は20世紀初頭の量子論の登場に端を発する怒涛(どとう)の100年を追っています。

 400万年という長い目で見たとき、今日に至る最後の100年間がいかに異常だったか、功罪合わせてどれほど社会に多大な影響を及ぼし、人間の思考や生活様式を変えてきたか、驚きとともに知ることができると思います。それは、私たちの今の立ち位置を再確認する機会にもなるでしょう。

取材・文/島田栄昭 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/小野さやか