『藤井聡太が勝ち続ける理由 王座戦――八冠の先へ』(日本経済新聞社編、日本経済新聞出版)の刊行を記念し「NIKKEI LIVE」で木村一基九段による王座戦トークショー 「〝観る将〟のための王座戦講座」 が開催された。今回は逆転が相次いだ理由や藤井王座の強さ、“勝ち続ける藤井聡太”に挑む棋士たちの心構えを解説する。

前回  木村一基九段「藤井vs.永瀬 世紀の名勝負を描いた傑作本」 から読む

木村一基(きむら・かずき)<br>1973年生まれ。千葉県四街道市出身。故・佐瀬勇次名誉九段門下。97年四段プロデビュー。2019年、タイトル挑戦7回目にして王位を獲得。46歳3カ月での初タイトルは史上最年長記録で「中年の星」と称された。王座戦五番勝負では第56期(2008年)と第69期(21年)に挑戦者となっている。「千駄ケ谷の受け師」や「解説名人」の異名も持つ(写真:2024年1月29日NIKKEI LIVEより)
木村一基(きむら・かずき)
1973年生まれ。千葉県四街道市出身。故・佐瀬勇次名誉九段門下。97年四段プロデビュー。2019年、タイトル挑戦7回目にして王位を獲得。46歳3カ月での初タイトルは史上最年長記録で「中年の星」と称された。王座戦五番勝負では第56期(2008年)と第69期(21年)に挑戦者となっている。「千駄ケ谷の受け師」や「解説名人」の異名も持つ(写真:2024年1月29日NIKKEI LIVEより)
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いくら注意していても一瞬のスキが生まれる

 王座戦五番勝負では、藤井王座が序盤からポイントを稼いでそのまま押し切る、俗に「藤井曲線」と呼ばれる会心譜が1つもなかった。それだけ永瀬九段の序盤戦術がうまくいき、藤井王座を苦しめたのだ。

 しかし、丹念な読みを武器にする永瀬九段でさえも、藤井王座を相手にするとリードを生かして勝ち切るのは容易ではなく、逆転を許した。終局直後のインタビューを担当した日本経済新聞の神谷記者は、第3局と第4局で永瀬九段から「エアポケットに入った」という言葉を聞いたそうだ。その発言は、トッププロがいくら注意していても、一瞬のスキが生まれるのを防げなかったことを意味する。

 では、なぜトッププロが慎重に指しても逆転は起きるのか。木村九段は、そのメカニズムを次のように分析する。
 「スキがない人をずっと相手にしていると、序盤から神経を使うんですね。そうすると、よくなったと思っても、いつどの球が飛んでくるか分からない。自分の想定した球が飛んでくれば、それを打ち返すことはできます。しかし意外な球が飛んでくることはやっぱりあるわけで、そのときにうまく対応できずに間違えてしまう。そして、そうやっていつも構えていると、緊張感が続きます。それがふとしたときに崩れて、ミスにつながる感じがしますね」

 相手のミスを、藤井王座は的確に捉えて勝っている。チャンスをほとんど逃さない要因は、木村九段いわく「読む量が多い」から。普通の棋士なら読みを打ち切るラインを、藤井王座はさらに掘り下げて「これで勝ち」と具体的に結論づけることが多いそうだ。

藤井王座にはスキがなく、対局する相手は神経を使って常に緊張状態が続く。それが逆転勝ちにつながる、と木村九段は解説する。画面左は聞き手の日本経済新聞・生活情報ユニットの神谷浩司文化担当部長(写真:日経BOOKプラス編集部)
藤井王座にはスキがなく、対局する相手は神経を使って常に緊張状態が続く。それが逆転勝ちにつながる、と木村九段は解説する。画面左は聞き手の日本経済新聞・生活情報ユニットの神谷浩司文化担当部長(写真:日経BOOKプラス編集部)
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トッププロでも難しい終盤を瞬時に読み切る

 藤井王座の深い読みによる逆転勝ちが、最も現れたのは第3局の終盤である。勝又清和七段が寄稿した『藤井聡太が勝ち続ける理由』の第4章「プロ棋士が読み解く藤井の強さ、思考」に掲載されたチャート図「藤井はここまで読んでいた」(下)は、勝又七段の取材を基に作成したもの。木村九段はこの図について「人が一番間違えやすい部分をどう間違えたか、どう間違える要素があったかを記してある。将棋の棋譜を表現するものとしては、かなり秀逸」と絶賛した。

勝又七段が作成した王座戦第3局の難解な変化手順(『藤井聡太が勝ち続ける理由』より)。トッププロでも難しい終盤を藤井王座は即座に読んでいた
勝又七段が作成した王座戦第3局の難解な変化手順(『藤井聡太が勝ち続ける理由』より)。トッププロでも難しい終盤を藤井王座は即座に読んでいた
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 チャート図のうち、実戦での進行はグレーの網がかかった部分。他はすべて藤井王座の読み筋だ。藤井王座は自身の負けをすべて読み切っていたというが、とても複雑な変化を短時間で見切るのは「トップクラスの棋士であっても、難しい」(勝又七段)。木村九段は「時間がなかった永瀬九段に空白が生じて、本譜の逆転が生まれたのでは」と推測し、チャート図の変化を盤上に並べて鑑賞することを勧めた。

 藤井王座の読み筋を再現し、持ち時間も追い込まれていた永瀬九段がどこまで読まないと勝てなかったかを想像すると臨場感が出る。本書に収録された永瀬九段の感想も読めば、より実感を持って伝わってくるだろう。

相手が正確過ぎるが故の「悪い信用」はワナ

 チャート図の展開を解説後、木村九段は藤井の読みを次のように評している。

 「読むことは誰でもできるんですけど、問題はその読みが正確かどうか。正確な読みが続くと、その人の読み筋、存在そのものを信用するようになり、受けるプレッシャーがさらに増します。この本を読むと、将棋のプロは藤井王座にさらに勝ちにくくなるかもしれない。そのくらい読みのすごさが分かります。『こんなに活躍している棋士がこんな悪い手をやるわけない』と、『悪い信用』をしてしまいますので、プロの勝負の上ではマイナスに出かねません」

 「悪い信用をしてしまう」は、勝負師らしい表現だ。絶対王者にどんなにひどい悪手を指されても、「絶対に何か用意があるはずだ」と疑心暗鬼に陥ってしまい、勝てる勝負も勝てなくなってしまう。見えない影におびえた深読みは疲労となって積み重なり、思考の歯車が狂い出す。そして、いざというときに頭が真っ白になって、通常では考えられない大逆転につながる。これらは人工知能(AI)同士の将棋には見られない、心を持つ人間同士の勝負であるがゆえの難しさだ。

 将棋界に長く伝わる「盤上没我(ばんじょうぼつが)」は、集中して考えることの大切さを説いた言葉である。無心で盤上に向かい、力を出し切る。棋力だけでなく、メンタルも将棋では大事な要素だ。これからの挑戦者には、藤井の強さを認めながらも、勝負では対等な気持ちで臨む姿勢が求められるだろう。

八冠を崩すのは誰か

 トークの後半では、1996年に羽生善治九段が七冠を独占(当時はタイトルが7つ。現在は8つ)を達成した際に、感想を問われた森下卓九段が「屈辱」と表現したエピソードが紹介された。いまの棋士たちも、藤井王座に対して「屈辱」と思っているのだろうか。

 「(藤井王座の)すごい読み筋を目の当たりにすると、おそらく敬意や尊敬の気持ちを持っている方がほとんどかなと思います。森下九段が羽生七冠誕生のときに『屈辱だ』と言ったのは、トーナメントプロとしては普通の話です。言いにくいことをあえて言ったのではないかと推測します。(藤井王座に対しては)言いたいんだけど、言えないという人がほとんどじゃないですかね」(木村九段)

 木村九段の率直な語りからも、藤井聡太に勝つのはやはり容易ではないのがうかがえる。「打倒藤井」の期待がかかるのは、実績十分の棋士だけではない。『藤井聡太が勝ち続ける理由 王座戦――八冠の先へ』中の日経記者座談会「記者が見た八冠の軌跡、藤井の素顔」では、「ネクスト藤井」として若手や奨励会員の名前が挙がった。2015年の第71回学生名人戦で優勝した日本経済新聞社の村上由樹記者は学生時代、当時小学生だった山下数毅、岩村凛太朗、片山史龍ら現奨励会三段と指して、その才能を肌で感じたそうだ。

 永瀬九段は「藤井は大棋士の系譜にある」と讃えた。「永世七冠」の羽生九段は48歳までタイトルを保持し続けた。同じように今後、数十年にわたって将棋界は藤井を中心に回っていくだろう。“藤井聡太が勝ち続ける世界”において、タイトルを獲るのは至難の業である。しかし、藤井の独り勝ちをプロが指をくわえて見ているとは思えない。誰が藤井八冠の牙城を崩すのか、熱い戦いを見守りたい。

文/小島渉

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