『 小説小野小町 百夜(ももよ) 』(日本経済新聞出版)の出版を記念し、著者の髙樹のぶ子さんによる講演と朗読会が開催されました。講演の模様をお届けします。「生き方を選べなかった平安時代に、小町はひたむきに自分の人生を見つめて、言葉を紡ぎ出し、歌を詠みます。計算できない、抗(あらが)えない運命の中で、必死に抗いながら目的を達成し、日本の文芸の基礎をつくりました。こんなにも一生懸命な女性がいたことを、私は新しい小町像として伝えたかったのです」。
日本文学の源流をたどってみたい
令和の年号の典拠は『万葉集』だったこともあり、令和になって『万葉集』が読まれ、漫画でも古典や歴史の物語がたくさん描かれています。
平家から戦国時代のドラマは血で血を争う権力闘争です。私はそれに疲れを感じ、日本文学の源流をたどってみたいと思いました。伊予親王の変、薬子の変、承和の変など帝の地位争いはありましたが、平安時代にはやわらかさがあったのではないかと。
漢字で書く万葉仮名を用いていたときは男性中心でしたが、平安時代にかなができると、女性が歌を詠みました。その時代に詠まれた歌が千百年たった今にも伝わっています。
また、芥川賞の選考委員を七十代半ばでやめたことも、私が古典に向かった理由です。選考委員をしている間は、新しい文学とは何かをいつも追究し、先端の文学を考えていましたから、古典の小説を書くのは難しかったのです。
古典を研究している学者がたくさんいますから、敷居が高かった。だから経験を積み、自分の命の終わりが見えてくる七十歳を越えるまでは、触れられないと思っていました。
小町は平安時代を代表する美女で、優れた歌人ですが、観阿弥・世阿弥の能、「通小町(かよいこまち)」や「卒塔婆小町(そとばこまち)」の印象が強く、美女零落(れいらく)が知れ渡っています。
深草少将が小町に求愛すると、「百夜、通ったのなら、意のままになります」と小町に言われ、百日、毎晩通ったが百日目に息絶えたという伝説もあります。
最後、小町は乞食になって野たれ死にしたとか、ひどい扱いをされています。なぜ、小町をそこまで惨めで、貶(おとし)めるのか、そんなはずはないとずっと思っていました。私なりに解釈して、小町の人生を構築したのが『小説小野小町 百夜』です。
『小説小野小町 百夜』の「百夜」は小説の中の笛の曲ですが、深草少将の百夜通いの話とも重なって、タイトルがピタッとはまりました。
文体は文語と現代文を混ぜ、五音と七音を意識して私が作った「平安雅文」です。この文体で最初に書いたのが前作の『 小説伊勢物語 業平 』(日本経済新聞出版/2020年刊)です。
五七調は、短歌、俳句、川柳など日本人になじみ深いリズムです。その調子に乗って読んでいただきたいと思ったからです。
情が人々の心に訴える
歌は情を表現したものです。私は情ゆえに人々の心に訴えて、刺さったから残り、千百年もの間、人々に伝えられてきたと思います。
平安時代は政にも情が出ています。桓武天皇から平城天皇、嵯峨天皇へと時代は変わります。嵯峨天皇は政治犯を殺さず、島流しにして、しばらくすると戻しています。力でねじ伏せることをせず、情で救済したのです。
私は事実として残っているものには、いい加減なものが多くあると思っています。歴史は権力者が目的によって都合よく書き換えるからです。
しかし、歌はそのままの形で残っているので信用できます。歌の中の情は解釈に幅はありますが、改変できません。歌に込められた情は、時代の中、さまざまな思惑を平然と生き永らえたのです。
十八首の歌から物語を作る
小野小町の名前は多くの人が知っています。小町はお米や通りの名前にも使われています。絶世の美女だということは知っていても、どのような人であったのか、その人生はどうだったのか、分かりません。
小町に関しては、『古今和歌集』に小町の歌が十八首残っているだけで資料はありません。しかも歌が作られた順番も分からない。紀貫之が編纂(へんさん)のときに項目で分けてはいます。
『後撰和歌集』にも小町の歌とされるものが四首あります。しかし作者は定かではない。『小町集』には百十二首ありますが、小町風な歌を集めたもので、作者は怪しい。
紀貫之は小町の歌を『古今和歌集』の仮名序で高く評価しています。貫之は散文の作品、『土佐日記』を書いていますし、優れた歌がたくさんあります。私は貫之の感性を信じています。
私は小町が確かに詠んだ『古今和歌集』の十八首から彼女の人生を作りました。歌に導かれた小町の生涯への旅です。
小説家というのは、自分をさておき、他の人になって、意識や感性をどこかに飛ばします。不遜ながら、私が小町になって書いていきました。
かなわぬところに「あはれ」がある
西行、藤原俊成、藤原定家によって広められた「あはれ」。
『源氏物語』の「もののあはれ」も現代にたどり着いています。江戸時代には日本古典研究家の本居宣長が歌論書に書きました。折口信夫もあはれについて書き残しています。男たちが現代まで運んできた概念、感性をたどっていくと、小町のあはれにたどり着きます。
長い年月をかけて、私たちのDNAの中にあはれはつながって、今に至っています。日本人の血の中には、桜が満開のときに美しいと感じ、散る桜に感じるはかなさと、移ろっていく悲しみにも美を感じることができるという小町的な感性があります。
その小町の美意識がよく分かるのが、百人一首にもある有名な歌です。
花の色は移りにけりないたづらに
我が身世にふるながめせしまに
この歌を小説の中のどこに置こうかと想像を膨らませていると、パズルがピタッとはまりました。前半の最後の大事な場面です。私は情を込めて書きました。
歌が物語を進めてくれることもありますが、歌に私が物語を寄せていく場合もあります。小町がどんな女性だったかを想像し、時代に添いながら書いていくのは楽しかった。
小町が恋をしたのは、仁明帝の小町への恋の思いを伝えにきた文使いの良岑宗貞(よしみねのむねさだ)です。つまり帝と文使いと小町の三角関係。禁忌の恋です。
当然、堂々と会うことはできません。小町を月に、宗貞を雲に例えて、名前を隠して会います。
宗貞は仁明帝が崩御した後、出家し、遍昭(へんじょう)となります。そのまま権力の座にいることも可能でしたが、家族にも言わずに出家しました。どこにいるのかも分かりません。
出家の動機は二つあると私は想像しました。仕えていた帝を尊敬していたため、崩御後、立場を捨てた。もう一つは、帝の思い人を愛してしまったことです。
小説の後半は小町が老いていく姿を描きました。遍昭と小町は、絶妙な接触をします。それを抱えて小町は生涯、生きていきます。
意思を持って強く生きた
平安時代は、歌によるコミュニケーションが人を動かしていました。
小町の人生には苦しく、つらいことがあったけれど、それに耐えて、純粋にひたむきに懸命に生き、自己実現した人だと思います。
小説の中で信頼していた男性からトラウマになるほどの裏切りを受けます。
「あはれ」を感じる時間の中で、許しの心を養います。小町は最低のところで、初めてあはれとは何かを歌に詠みました。苦痛に潰されるのではなく、歌を作ったのです。かなわないところにあはれがあります。あはれは、時間をかけて、人生のよいことも、つらいことも経験した人が分かるものです。小町は最後には、人としての高み、つまり許しも分かりました。
小町の歌を都の人たちは知っていて、引き歌にもしました。小町的な歌を集めて『小町集』まで出たのです。
小町が都を去るときに、都の人たちがみんな街角で見送る場面があります。尊敬され、慕われていました。鄙(ひな)の出身だとか、悪く言われることに負ける女性ではありません。
生き方を選べなかった平安時代に、小町はひたむきに自分の人生を見つめて、言葉を紡ぎ出し、歌を詠みます。計算できない、抗えない運命の中で、必死に抗いながら目的を達成し、日本の文芸の基礎をつくったのです。あはれというものをつくった功績は大きいと思います。小町の栄光は、当時の女性としては、最高だったと私は思って書きました。
歌を詠みながら学んで成長し、昇華していく。小説では許しも大きなテーマです。忍んで、耐えて、最後は許す。意思を持って強く美しい生き方をした。こんなにも一生懸命な女性がいたことを伝えたかったのです。
取材・文/小西恵美子 撮影/小野さやか
千年の時を経ても語り継がれる「小町」の名。実作と伝わる和歌をよりどころに謎多き生涯を小説に紡ぎ、この女性歌人を数多の小町伝説から解き放つ。「百夜通い」とははたして――平安女流文学の原点がここにある。
髙樹のぶ子著/日本経済新聞出版/2420円(税込み)



