『ニムロッド』(講談社)で第160回芥川龍之介賞を受賞した小説家・上田岳弘氏が、自身初となる恋愛小説『最愛の』(集英社)を上梓した。情報も欲望もそつなく処理する主人公が、心を離れない人生唯一の愛と向き合っていく『最愛の』は、「血も涙もない的確な現代人」のための恋愛物語だ。起業に加わったIT企業の役員としての顔も持つ上田氏に、現代における恋愛、そして恋愛小説の存在意義について聞いた。(聞き手=金澤英恵)
「恋慕」が「推し」に置き換えられた現代
現代において、恋愛の最終形は結婚一択ではなくなり、さまざまな選択肢があり、恋愛への価値観も色々です。現代における「恋愛」について、上田さんはどう感じていますか?
恋愛は、ある意味勘違いだったり、理想を押し付けたりすることでもありますが、うまくいけば交際に発展して、いわば疑似結婚のような関係に変わっていきますよね。ですが今は、恋愛が内包していた要素が解体・分離されて、恋慕が「推し」という言葉に置き換えられ、肉体的な快楽はまた別のパーツとして捉えられています。
本来、恋愛は恋慕も肉体の快楽も統合されたもので、好きな人ができて、互いに思いこがれた末に、肉体として結ばれ、結婚する。これが昔の価値観でいうところの「一つの幸せの形」でした。それが義務になると息苦しいのは確かだけれど、モデルケースが消滅しても、それはそれでしんどいのでは、と感じます。何かしら価値基準があったほうが「自分はそちらを選ばない」と反発しやすいでしょう。逆に反発するものがないと、人生の手応えがなくなる人が出てくるのではないかと思うのです。
恋愛の解体・分離が起きているのはなぜだと思われますか?
これは恋愛のみに限った話ではなく、社会生活における「本音」と「建前」にも同じことが起きていると感じています。今の社会では、「血も涙もない的確な現代人」を演じ切ることが求められていて、「普通であること」の基準が上がり、特にビジネスでは本音を語ったり人間らしさを表現したりすると、未熟と見なされてしまう。
だから、処理し切れない、こぼれ落ちた感情をSNSに吐露するしかない人もいる。そうやって本音と建前をシステマチックに分離しなければならない社会に僕自身、窮屈さを感じています。インターネットの発達がもたらした負の側面かもしれません。
鼻白むことなく読める「恋愛小説」は書けるのか
かつてはトレンディードラマなど、恋愛を描いた作品が社会的ブームを巻き起こして、誰もが当たり前に恋愛を享受できるだろうという期待感のような空気がありました。そんな時代から、現在はだいぶ変化したように思います。
僕たちの青春時代は、分かりやすく共感しやすい恋愛の形が存在していましたよね。恋愛ものとまではいえませんが、僕の作品に『私の恋人』(2015年、新潮社)という小説があります。主人公の「私」が理想の恋人像を思い描きながら、旧石器時代の10万年前から現代まで、時空を超えて何度も生まれ変わる、といった話なのですが、恋慕とは生きるモチベーションや人生の軸になり得る、ということを描いた作品でもありました。
その『私の恋人』から8年が経ち、生きるモチベーションとしての恋愛が解体してしまった現代で本格的な恋愛小説を果たして書き得るのか。書けたとしても読者が鼻白むことなく読めるものが描けるのか。『 最愛の 』を書いたのは、作家としてそこに挑んでみたいという気持ちもありました。
最近では、恋愛はコストパフォーマンスも悪ければ、タイムパフォーマンスも悪い、と言われることもありますが、どう思われますか。
恋愛の優先順位が下がってきている。そんな雰囲気はやっぱり感じます。それに、作中でも書いていますが、ディズニーのプリンセス系映画でも、「王子様と結ばれてめでたしめでたし」では成り立たない。王道の恋愛物語では誰も納得してくれなくなっている。
例えば、『アナと雪の女王』なら、一見すると王子様風の登場人物に裏の顔があったりします。あるいは「恋愛よりも家族が大事」と伝えるものも増えている。だったら僕らが見てきたあれはなんだったのか、と思うじゃないですか。あの王道パターンにも重要なことがあったはず。『最愛の』ではその意味を考え直したい、という思いも実はあります。
20年以上前の未発表原稿と向き合った『最愛の』
ちなみに『最愛の』にはモチーフはあるのでしょうか。
僕が作家になるだいぶ前、19歳か20歳くらいのときに書いた小説がベースになっています。主人公が遠くにいる恋人とやりとりを重ねながら、一つの区切りを迎えるまでを描いた物語で、原稿用紙450枚ほど書きました。ただ、当時は小説家のなり方はもちろん、文学賞なる制度もよく分かっていなかったので、どこにも応募していなかった。今年は小説家としてデビューしてちょうど10年なので、若いときに書いたモチーフをきちんと組み直してみようと。
19歳、20歳の頃に執筆した作品と再度向き合われて、変化を感じることはありましたか?
なにせ20年以上たっていますからね。当時は社会人のことを書こうにも想像の範囲を超えなかったけれど、何より僕自身が年を取り、仕事や生活をしてみると世の中、思いのままにいかないことが山ほどある、と思い知ったわけです。だからこそ書ける、「思うままにいかないことへの納得のさせ方」があると思っていて。僕はそこを割と細かく書き込むタイプなので、『最愛の』でも、僕自身の経験が作品のリアリティーに寄与しているはずです。
「答えらしきもの」を5%でも疑ってみる
それにしても、『最愛の』というタイトルは、その後続くのは誰の名前なのか。自分と重ね合わせるなら配偶者なのか、家族なのか、昔の恋人か、はたまた推しなのか。本を手にした瞬間から考えさせられます。
少し恥ずかしい言い方をすれば、「最愛の」に続くものが、その人の人生そのものではないでしょうか。ただ作中でも、主人公が安易に答えを見いだしそうになると「本当にそうだろうか」と疑問を呈して、いったん崩しながら、物語を作っていくようにしました。
勘違いを一つずつ砕いていって、それでも残る勘違いがあるとすれば、きっとそれが重要な答えだろうと。小説というのは、そうした普段は掘り起こせないものを見つけるためにある、という気もしています。それぞれに考えながら、味わってもらえたらうれしいですね。
恋愛小説には「味わう」という言葉がぴったりですね。動画の早送りのように読み飛ばしてしまうと、登場人物たちの感情の機微を知ることができません。
そもそも「強く求める」のが恋愛であって、サラリと流せないものでもありますよね。ただ、今は何かを「強く求める」こと自体が難しくなっています。世の中のほとんどのものが「解釈」されて、ネットで検索すれば指一本でもっともらしい答えが引っかかる。それは答えの一部であり、答えそのものではありません。とはいえ、出てきた答えの95%の部分が合っているなら、そのまま受け入れたほうが早い。5%の不透明な部分を追究していたら時代に置いていかれますし、日々のあれこれをこなしていけません。
だから僕たちは、深追いをせず効率を重視する「的確な現代人」にならざるを得ないわけですが、不透明な5%について「答えを求める読書」もあれば、5%について「踏み入るきっかけになる読書」もあると思っています。恋愛小説や純文学を読むことは、おそらく後者なのではないでしょうか。
それこそ少し前の文脈で、ビジネスの世界でも「アート思考」という言葉がはやりました。ですが結局、「休みの日に絵を見に行こう」といったライトな感じで消化されてしまった。本来の「アート思考」とは、自分の中で答えが出ない苦しみを飲み込んで、かつ自分のものにしていく、という人生にとって重要な考え方であり、アートや純文学、文学の真骨頂もそこにあるはずです。
いま薦めたい恋愛小説
「時代が移り、通信手段も変わる中、日本の若者が引きずっていたもの、誰もが解決できなかった問題を、携帯電話がなかったときに書かれた『 ノルウェイの森 』から今一度振り返ってみたい。そんな思いの下、『最愛の』と向き合いました」(上田氏)
取材・文/金澤英恵 構成/谷島宣之 写真/小野さやか



