韓国で「こんな先輩がほしかった」と話題の『会社のためではなく、自分のために働く、ということ』(チェ・イナ著、日経BP)の翻訳者で、韓国在住の中川里沙さんに、近年の日本での韓国翻訳本の人気の背景と、日韓の出版文化について伺った。
韓国の作家は社会問題を書くことが使命
私は現在、韓国の書籍やWEB漫画の翻訳を手がけています。2024年、韓国はハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞に沸きましたが、私が最初に韓国に興味を持ったのはK-POPや韓流ドラマでした。音大生だった当時にSUPER JUNIORのファンになり、韓国旅行をしたら、街の人がすごく親切だったんです。私が日本人と分かると嬉(うれ)しそうに日本語で話しかけてくれたり、荷物を持ったり、道案内をしてくれる人がたくさんいました。そこから「韓国語ができたら楽しいだろうな」と韓国語を猛勉強。ワーキングホリデーも体験し、10年ほど前から韓国に住んでいます。
近年、ハン・ガンさんだけではなく、『82年生まれ、キム・ジヨン』(キム・ナムジュ著、斎藤真理子訳/ちくま文庫)など多くの韓国文学が話題となっていますね。日本のみなさんにとっては「共感」できることが人気の理由ではないでしょうか。韓国と日本は地理的に近く、生活様式や上下関係を重んじるところも似ています。結婚した女性は義理の家族の一員として、みんなで食卓を囲む機会も増えます。韓国語では「情(ジョン)」と言いますが、ややお節介なほど情に厚い人も多く、周囲の友人の話を聞くと「シオモニ(義母)が留守の間に勝手に家に入り、冷蔵庫にキムチを置いていった」と一昔前の日本のような話もよく聞きます。韓国と日本は社会のあり方が似ていて、その分人々が抱える悩みも似ているように思います。日本の方が韓国の翻訳書を読んで「自分のことが書かれているのかと思った」という感想が多いのもそういう背景があるのではないでしょうか。
ただ、韓国と日本が違うのは、生きづらさや就職難といった問題を深掘りしていくと、それが個人の問題ではなく、社会問題として捉えられるところです。韓国の作家は植民地支配や朝鮮戦争、セウォル号の沈没といった社会的な問題を作品にすることを使命としています。学生や市民が声を上げ、民主化を勝ち取った光州事件などもあり、「社会を変えるため、自分たちには声を上げる使命がある」と信じているのでしょう。そうした力強さも韓国文学の魅力だと思います。
それからもう一つ、韓国文学の特色といえばフェミニズムですね。私も韓国人男性と結婚して出産したとき、育児や今後のキャリアについて悩みました。でも、個人的に抱えているモヤモヤが社会構造や社会から向けられる視線に起因すると分かり、すごく救われました。最近では「非婚」に関する本も多く、日本語版も数冊が翻訳されています。
「生きづらさ」の表れ? 韓国では哲学書が人気
そして近年、韓国で異例の人気となっているのが哲学書です。最初に『40歳で読むニーチェ』がヒットし、『40歳で読むショーペンハウアー』という本も出ています。「人生100年時代」で平均寿命が延びる一方で、社会は閉塞感に満ち──と、韓国の人々も社会の中で生きづらさを抱えているのだと思います。
韓国では日本の出版文化に対して、かつては「憧れ」「新鮮さ」があったと思います。特に村上春樹さんなどの文芸作品は人気で、韓国の作家の中には「影響を受けた」と話す方が多いです。今はさまざまな作品がリアルタイムで手に入るようになり、日本と同様「時間術」「話し方」「自己啓発」といったジャンルもよく読まれています。
ただ、残念ながら韓国も「本離れ」が進んでいるので、ハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞で出版業界が活気づいてほしいと願っています。受賞発表の翌日、大手オンライン書店のランキングは1位から10位までハン・ガンさんの作品が独占しました。
韓国では毎年、編集者がリアルタイムでノーベル文学賞受賞を予想するYouTube番組があるのですが、発表の瞬間は「えっ、今、何て言った?」「ハン・ガンって言った?」と唖然(あぜん)。韓国内ではいつかは受賞するだろうと予測されていましたが、「まだ早い」と思われていたようです。そのため出版社も特に作品の増刷などをしていなかったのか、書店では在庫切れが相次ぎました。
ハン・ガンさんには光州事件を題材にした『少年が来る』、済州島4.3事件を描いた『別れを告げない』といった作品があり、歴史や人々の痛みを伝える作家として高く評価されています。そして、文章がとても美しい。まだ読んだことがない人はこれを機に、ぜひ読んでみてほしいと思います。
ハン・ガンさんが開いた独立系書店は、ノーベル文学賞受賞の発表後、ファンが押しかけてしばらく休業したそうです。韓国では本離れが進む反面、独立系書店が増えています。女性オーナーがフェミニズム関係の本を置いていることも多く、キュレーションやSNSの使い方も上手。またここから新しいブームが生まれるのではないかと楽しみです。
後編では、中川さんが翻訳を担当した、韓国で独立系書店を経営している「本屋のマダム」ことチェ・イナさんの『会社のためではなく、自分のために働く、ということ』について紹介します。
取材・文/三浦香代子 構成/木村やえ(日経BOOKSユニット) 写真/鈴木愛子
チェ・イナ著、中川里沙訳、日経BP、1980円(税込み)



