人気作家・山田詠美氏が、22年11月に自身の半生を描いた自伝小説『私のことだま漂流記』(講談社)を刊行した。文学少女だった幼少期から、挫折を経験した学生漫画家時代、小説家デビュー、黒人男性との結婚と離婚、様々なバッシングにもさらされた波乱のキャリアを描く。多くの出会いを通じ、小説とは、小説家とは何か、40年近くにわたり第一線を走り続ける作家の原動力とは何かを、率直な語りで伝える内容だ。[日経クロストレンド 2023年1月27日付の記事を転載]
小説とは「根も葉もある嘘八百」
――改めて自伝小説執筆のきっかけを教えてください。
小説とは「根も葉もある嘘八百」というのは佐藤春夫の言葉です。確かに、小説は虚構の世界ではあるけれど、私が生きてきた本物の時間が根となって葉を繁らせ、小説を書いてきたのだということを書き残しておこうと思ったんです。
本書を連載していたのは「毎日新聞」の日曜版。私が大学生だった約40年近く前、この同じ連載枠では宇野千代先生が自伝小説『生きて行く私』を連載していました。当時の私は漫画家を目指していましたが、鳴かず飛ばずで、日々の糧を得るための水商売のアルバイトが生活の中心になり、将来の展望が見えなくなっていた時期でした。そんな中、この連載で当時84歳だった宇野先生の生き方に触れ、師と仰ぐようになった。同じ枠で連載のお話を頂いたときはうれしかったですね。
私には宇野千代先生のように人を導く力はありませんが、小説家になりたいと思っている人や、小説が好きな人、小説家とはどのような人たちなんだろうと思っている人に向けて、同じくその1人だったかつての私が「こういう本を読みたかった!」と思えるものを書けたと思います。
――作家デビューは1985年の『ベッドタイムアイズ』ですが、宇野千代氏にはこの最初の小説を書くにあたっても、大きな影響を受けたそうですね。
当時、漠然と小説を書き始めたはいいものの、なまじ小さい頃からの「本読み」で目が肥えていたために、自分が書いたものが下手すぎて耐えられなかった。数行書いては捨てることを繰り返していました。書き手の自分による書き出しの数行を、読み手の自分がどうしても許すことができなかったわけです。
ちょうどその頃、宇野先生が雑誌に連載していた文章作法に関するエッセイの切り抜きを読み返したんです。そこには「間違っても、巧いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、これまでに、誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません」と書かれていた。
これを読んで、自分には小説を書く資格はないと落ち込みました。当時の私には、賞を取って評価されたいとか、チヤホヤされたいとか、本が売れてお金が入ってきたらいいなという姑息(こそく)な欲があったからです。今にして思うと、小説家を目指すにあたり、最初にそれを自覚して落ち込む経験は大事だったと思います。
そこで一度きっぱりと書くのをやめ、その後何カ月かがたってデビュー作の最初の1行が浮かんできたときには、「私は小説家になりたいんじゃない、小説を書きたいんだ」「落選しても、また次の小説を書いて応募すればいい」と、もう欲はすべて消え、ただ一心に書き上げることができた。これが小説家としての本当のスタート地点だったと思います。
――1行目をどのように書き出すかは、小説家にとって大事なことなのですね。
小説家の中には、1行目を軽く書いてしまう人も多いですね。一方で、軽く書いたように見せかけて、考え抜かれた達人の1行目もある。本読みだからこそ、その違いはよく分かります。だから、自分の書く1行目にも厳しいのです。
小説をパソコンで書く人は、画面上で書いたり消したりしながら推敲(すいこう)をすると思いますが、私はずっと手書きです。これは、自分が鍛えてきた小説の運動神経のような部分に関わるので、今後も執筆方法を変えるのは無理でしょうね。
手書きだと気軽に修正はできないので、間違えないよう頭の中で言葉がしっかりと決まってから書き始める。なので、いざ書き始めるまでが長く、その期間ははたから見れば何もしていないように見えるかもしれません(笑)。けれど、最初の1行がしっかりと浮かんだときには、これで書き上げられるという確信が自分の内側にあり、その後はコンスタントに書き続けていける。
1行目の時点で、小説の全体像が必ずしもはっきりと見えているわけではありません。けれど、書き進めていく中で行き先が見えてきて、ついに最後の1行にたどり着いたときに、「だから私はあのような1行目を書いたのだ」と、自分の内側にあったものを理解できる瞬間が訪れる。小説家の中には書くことが楽しくて仕方がないと公言する人もいますが、私はどちらかというと苦痛が大半。でも、そんなふうに最後の1行にたどり着けた瞬間には、得難いものがあります。だからこそ、最初の1行目というのは本当に大切なんです。
――本書には幼い頃から本に引きつけられ、「本読み」へと育っていったエピソードもつづられています。10代で多くの本を読むことは、小説家になるために必須の条件でしょうか。
スポーツ選手などもそうですが、プロになる人って子供の頃からトレーニングをしますよね。小説も同じです。やはり、プロの書き手になるためには、まだ柔らかい10代の脳味噌に、グサっと突き刺さるような読書経験が必要なんです。その頃に刺さった言葉や感覚は、永遠に忘れませんから。作家の半村良さんは「作者は読者のなれの果て」だと仰ったそうですが、本当にその通りだと思います。
自分にだけ見えるものの本質をシンプルな言葉で書く
――小説では黒人文化を多く描いてきました。引かれていったきっかけは?
よく「なぜそんなに黒人男性(ブラザー)が好きなの?」と聞かれます。でも、それはテイストや趣向の問題で、理由を言葉で説明できるようなものではないんです。10代の頃、深夜放送で糸居五郎さんのラジオ番組を聴いて、ソウルミュージックやジャズにハマっていきましたが、同級生たちは西城秀樹や郷ひろみなど当時のアイドルを好きな子が多く、学校では話の合う子は少なかった。
なので、自然と学校の外で気の合う仲間を見つけていったんですね。背伸びしてジャズ喫茶に行ってみたり、赤坂や六本木のクラブに通って夜遊びしている子と知り合ったり、黒人のボーイフレンドと暮らすようになったりして、世界が広がっていきました。当時は小説家になりたいと思っていたわけではありませんが、10代から20代前半にかけて触れた人々やカルチャーは、小説家としての大きなルーツになっています。
――まさに人生経験が小説の「根」になっていったのですね。
自分の記憶や経験が小説の言葉になっていく過程では、実は時間を置くことも重要です。誰かに怒りを覚えたり、何かを経験して鳥肌が立ったりといった経験も、直後の生々しい感覚で書くのではなく、時間がたつと捉え方が少しずつ変わっていく。誰にでも読んでもらえる俯瞰(ふかん)的な視点へと移っていく。例えば、人についての記憶も、時間を経る中で肉が削ぎ落とされ、骨になり、最後には魂が残るように、余計なものがだんだんと濾過(ろか)されていって、その人の本質が「書くべきもの」として見えてくる。
逆に、世の中の多くの人の目にも当たり前に見えていることは、わざわざ小説に書く必要はないんです。そういう部分は削ぎ落とし、美辞麗句も削ぎ落とし、私にだけ見えるものの本質を、シンプルな言葉を使って表現したいという思いが根底にあります。
――作中には水上勉氏が『トラッシュ』について、「詠美は台所と寝室だけでニューヨークの街が描ける」と評したエピソードが出てきます。
ニューヨークの街って実際に訪れたことはなくても、ビルディングが立ち並ぶマンハッタンの風景のように、多くの人が写真などで見知ったイメージにあふれている。けれど、自分がかつてその街にいて、そこで出会った人々がいて、自分にとって特別な空間がそこにあったのだということは、他の誰かの手によるイメージを借りても伝わらないですよね。ニューヨークの冬を、スチームに曇る台所の窓ガラスの描写で描いたときに初めて、そこは小説世界の中だけに存在する、私だけのニューヨークになるわけです。
――89年の『放課後の音符(キイノート)』ではそれまでの作風から一変し、高校生の少女たちの恋愛模様を描きました。
作風が変わったというよりは、私の違う側面を引き出してくれる良い編集者と出会えたことが大きかったです。小説家にとって自分1人の力で書いていくのは必要なことですが、デビューして次の段階に進むときに、「こういうのも書けるんじゃない?」と別の可能性を見つけ出してくれる編集者と出会えるかどうかもとても大事なんです。こればかりは運ですね。もしくは、それこそ自分が書いた「ことだま」が出会いを引き寄せるものかもしれない。
『放課後の音符』は故・淀川美代子さん(マガジンハウスの編集者、雑誌「Olive」や「an・an」の編集長を歴任)が、当時はスキャンダラスなイメージがあった私の作品の中に、文学少女的な部分を見つけ出し「少女を主人公に小説を連載してみないか」と、提案してくれたことで書けた小説です。私自身も、書かせてもらえるなら書きたいと思っていた。
この流れはその後、『ぼくは勉強ができない』へと続いていき、ここで読者層が大きく広がりました。料理に例えるなら、基本のダシの取り方は変わらないけれど、その後の調理法を変えたことで、さらにたくさんの人に読んでもらうことができた。「書かせてもらう」「読んでもらう」喜びを知った経験でもありました。
書き続けることはパスポートと滞在許可証
――恋愛小説の名手として、恋愛を「コスパが悪い」と考える若い世代の登場をどのように見ていますか?
恋愛はしなくたっていいんです。でも、ずっとしないで生きてきて、いざ歳をとってからしようと思うと、恋愛をすごく大したものだと思ってしまうでしょう。「コスパが悪い」という若者も、言葉通りにそう思い込んでいるばかりではなく、本当は傷ついているのに、傷ついていない自分を演出したくて、そう言ってしまう子もいるのでは。人間関係は恋愛だけじゃないんだと思うためにも、くだらない恋愛をしてみるのもいい。そういう意味で、カジュアルな恋愛やセックスって、それなりに大事だと思うんです。
「無駄なものが文化を作る」と私はよく言いますが、ここで言う「無駄なもの」というのは、金銭的に贅沢(ぜいたく)をするという意味ではありません。「コスパ」という言葉を使う人には、ぜひ森茉莉さんの『 贅沢貧乏 』(講談社)を読んでいただきたい。ボロボロのアパートで暮らしながらも、アリナミンの小瓶を「黄金色の口金の宝石のような瓶」と描写する精神。これが真の贅沢です。何しろ森鷗外の娘ですから、並の人間には真似ができません(笑)。人間は、無駄と言われても、木漏れ日の下で揺れる木の葉の影を見つめるようなセンチメントを必要とする人と、必要としない人に分かれる。これは小説家も同じで、私は前者の作家だということです。
――40年近く小説を書き続けてきた、原動力になっているものは何でしょう。
そもそも世の中は小説家に対して甘いと思うんです。小説を一度出したら、作品を何年も発表しなくても、ずっと「小説家」と呼んでもらえる。けれど、本当の小説家稼業とは、白紙の原稿用紙を前に、書くのが辛いときも1人でずっと机に向かい、地道に字を書き続けることです。孤独でも苦痛でも、なぜ書き続けるのか。それが、小説家という生き物の「性(さが)」だからだと思います。
自分の記憶や経験を言葉にしていくことを、野暮(やぼ)だと思う自分もいる。同じように様々な経験をしてきても、言葉にすることも小説も全く必要としない、かっこいい女性たちの姿もたくさん見てきたので。
私にとって小説を書き続けることは、パスポートや滞在許可証のようなものです。「自分国」という国にいるためにはそれが絶対に必要で、小説を書き続けなければパスポートと滞在許可証を失い、自分が自分でいられなくなる。分かりやすく言うと、そんな感覚です。だから、忘れてもいいはずの記憶をずっととどめて言葉にする自分を、どこかでいじましいとも思いながら、小説を書き続けています。
(写真/髙山 透)







