『地図と拳』で直木賞と山田風太郎賞をダブル受賞、今最も注目すべき小説家の1人である小川哲氏。2023年10月発売の新著『 君が手にするはずだった黄金について 』は、小川哲本人を主人公に、占い師、金融トレーダー、実話漫画家など、承認欲求に囚われて様々な「偽り」を抱える人物たちと小川が遭遇していく、内容も構造も虚実入り乱れる異色の連作短編集だ。執筆背景を聞いた。[日経クロストレンド 2023年11月2日付の記事を転載 一部情報を更新]

小川作品を語る際、多くの読者が魅力に挙げるのは「嘘と本当」「虚構と事実」の境目が揺らぐ、小説的仕掛けの面白さ。小川氏はなぜ「嘘」や「虚構」のテーマを繰り返し描き続けるのか
小川作品を語る際、多くの読者が魅力に挙げるのは「嘘と本当」「虚構と事実」の境目が揺らぐ、小説的仕掛けの面白さ。小川氏はなぜ「嘘」や「虚構」のテーマを繰り返し描き続けるのか
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小説家 小川 哲氏
おがわ・さとし。1986年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年、『 ユートロニカのこちら側 』(早川書房)で第3回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。18年に『 ゲームの王国 』(同)で第31回山本周五郎賞、第38回日本SF大賞を受賞。23年に『 地図と拳 』(集英社)で第168回直木三十五賞、『 君のクイズ 』(朝日新聞出版)で第76回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門を受賞
『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社) 2023年5月発売
『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)、2023年5月発売
小説家の「僕」=小川哲は、承認欲求にとらわれ様々な偽りを抱える人物たちに遭遇する中で、「嘘」を物語にする小説家である自分自身と向き合うことになる

自分を偽ってでも誰かに認められたい「承認欲求」

──『君が手にするはずだった黄金について』は、「僕」=小川哲を主人公とした連作形式の短編集。80億円を運用しインスタグラムに羽振りの良い暮らしぶりをアップするトレーダーの旧友や、偽物とおぼしきロレックスのデイトナを腕に巻く漫画家など、人に認められたいがために本来の自分を偽る、承認欲求にとらわれた人々との遭遇が描かれます。

 作者の僕自身は、実は承認欲求があまりないのです。もちろん人間である以上、誰かに認めてほしいという思いはありますが、本作の登場人物たちのように、自分を偽ってまで誰かに認められたいという欲求は、僕にはよく分からない感覚でした。だからこそ、彼らのような人物に興味を引かれ、理解したい。それが執筆動機の1つにもなっています。

──承認欲求と自己肯定感は、背中合わせの関係だとよく言われます。

 確かに僕は自己肯定感が比較的高く、「俺が俺を認めていればOK」という面が強いかもしれません(笑)。自分で自分をある程度承認できているので、他者承認を必要としていないのでしょう。小説についても、誰かに評価されることより、自分が自分の作品を良いと思えるかどうかを重視して書き続けてきました。

 今はSNSなどで簡単に「何者かになれた自分」を偽れるぶん、本当の意味での承認欲求を満たすことはむしろ難しくなっている、こじれた時代なのかもしれません。そうした感覚を、小説を通じて知りたいという思いがありました。

小説は「3月10日」を描かない

──本書には、小川さんが5年ほどにわたり発表してきた短編が収録されています。単行本化の構想はどのように固まっていったのでしょう?

 最初に書いたのは「三月十日」(「小説新潮」19年7月号掲載)です。その時点で、1冊の本にするにはどういうコンセプトにすべきだろう?と考えてはいました。2作目の「小説家の鏡」(同、21年1月号掲載)の執筆時に「小説家を主人公として、小説とは何かを考えていく連作形式にする」というコンセプトが定まった。だったら、主人公とすべきは架空の小説家ではなく、僕自身=小川哲であった方がいいと思いついたのです。

──「三月十日」は、東日本大震災が起きた2011年3月11日の「前日」をテーマとした作品ですね。

 「3.11」の当日にどこで何をしていたのかは覚えていても、その前日の記憶は全くない人がほとんどだと思います。人間の記憶って平等じゃないですよね。社会的インパクトが大きい出来事や、自分にとって印象深い出来事のあった日のことはよく覚えていても、その前後のなんでもない1日はあっさり消去されてしまう。また、記憶が残っている場合も、事実と異なっていたりする。

──作中では、小川さん自身が3月10日にどこで何をしていたのか、当時のスマホの履歴などを遡って推理する中で、事実だと思っていたある記憶が「改ざん」だったと気づく描写がありますね。

 人間の記憶は、自分に都合よく改ざんされたり、都合の悪い部分がばっさりカットされたりする。そうした記憶の性質には、小説に通じる部分があります。小説を執筆するうえで、「作品にとって都合の悪いことをいかに書かないか」は重要な技術の1つでもあるからです。つまり、小説とは普通は「3.11」について書くものなのです。だからこそ、小説に描かれない「3月10日的なもの」に光を当てることで、逆方向から「小説とは何か」を考えようとしたのがこの短編でした。

──「小川哲」自身を主人公とする本作は、小説の形を取りつつ、かなり現実に沿ったノンフィクションの要素が含まれています。自身を主人公にした作品を書くのは、通常の作品とどのように違いますか?

 作家が自分自身を主人公にして小説を書く際、最も足を引っ張られるのは「俺はこういう人だと読者に思われたい」という自意識ですね。それを出さないよう、特に気をつけました。必要以上にカッコよく書かないとか(笑)

 実際に作中にはかなりの事実が含まれています。「この物語はどこまでが本当なのだろう?」と思いながら読んでもらう効果も狙って、「小川哲」本人を主人公としているので、虚実の境目は読み手に好きに判断してもらいたいと思っています。執筆中は、自分自身を書いている感覚はあまりなく、小川哲という小説家の主人公を、物語に沿って動かすことに集中していました。

SNSで最も強いのは、主張を持たない人間

──作中にはSNS発信で承認欲求を満たしたり、収入を得たりする登場人物も現れますが、小川さんは現在の「X」のようなSNSをどのように見ていますか?

 僕は発信しない傍観者ですが、観察はしています。Twitterから「X」になり、インプレッション数がお金に直結する仕組みができたことで、「いかに目立つか」を追求する流れが加速している。党派性が強まり、極端な意見を言う人が増えて、本当は反対でも賛成でもないのに極論を言うとインプレッションを稼げるので、そこに乗っかっていく人が増えて──と極論のインフレ状態になっています。SNSという場所は、最終的に必ずそうなる運命なのかもしれませんね。

 SNSでは案外、自分の主張をろくに持たない人の方が強い点も興味深く見ています。「みんながこういうことを言いたがっている」という内容を、極端に言い換えて代弁するのが、最もインプレッションを稼げる方法だからです。つまり「主張のない人ほど極端なことを言う」というねじれた状況になっている。インプレッション欲しさに発信していた極論が次第に内面化され、過激化していって、それがお金にもなってサバイブしていく人が作家の中からも現れたりしています。良いか悪いかはともかく、そういう魔境みたいな場所になっているなと見ています。

──SNS発信を一切していないのは、若手の小説家としては珍しいですね。

 デビューしたての頃は担当編集者に、プロモーションのためにやった方がいいとよく勧められました。そのたびに「東野圭吾も、村上春樹も、宮部みゆきもSNSはやってないじゃないですか」と反論していました。SNS発信と作品の売り上げは関係ないでしょうと。

 これは僕の持論なのですが、作家がプロモーションのためにSNSをやるなら、炎上しなければ意味がない。タイムライン上で誰かと派手にけんかをしたり、極論を言ったりして、僕を知らない人の目にも触れるくらい炎上しないと、既存の読者にフォローされているだけでは知名度は上がりません。でも編集者は、炎上は嫌がるのです(笑)。面白いこともあまり言えないタイプなので、小説家は小説だけを読んでもらってやっていければ、それが一番いいですね。

祭りの中心で踊れない人間が小説を書く

──表題作の中で、作中の小川さんは「人生においては黄金のような真実の瞬間があり、けれどそれを文章にしたときに何かが変質して偽物になってしまう」という、小説を書くことの中にある本質的な「嘘」や「偽り」に向き合います。過去作品の中でも繰り返し問われてきた、嘘や虚構、偽りといった小川作品のテーマ性は、どこから生まれたのでしょう。

 例えば、お祭りの踊りの輪の中心で一心不乱に踊っている人は、お祭りについての小説は書かないでしょう。小説というのは、その白熱した踊りの輪から離れたところで、腕組みして眺めている人間が書くものだと僕は思っています。踊っている人は、その瞬間に満たされているので、誰かに伝える必要がない。

 小説家は本質的に祭りを楽しめない存在なんです。自分があたかも祭りの輪の中心にいるかのように物語を書くためには、全体を俯瞰(ふかん)して観察していなければならない。逆に言えば、小説家とは祭りの中心で踊れない人のためにある職業でもある。

 この仕事をしていると、素晴らしい映画を見ていても、見ながら常に分析してしまう。恋愛小説も、本気で恋愛に無我夢中になっていたら、小説に書こうとは思わないかもしれない。そういう点で、自分が地に足を着けて生きている感じがしない、「本物」じゃない感覚が常にあります。現実の楽しさを薄めて、どこかで嘘をついているような虚しさや悲しさ、言葉にすることで本当の世界の経験がどんどん偽物やイミテーションに変異していくような感覚をずっと抱いていたので、それが様々な形で作品のテーマにつながっているのかもしれません。

『地図と拳』(集英社) 日露戦争前夜から第2次世界大戦までの半世紀にわたって、満州の架空都市を舞台に知略と殺りく、都市の興亡を描く。直木賞受賞作となった、史実と虚構が入り乱れる超巨編の戦争小説
『地図と拳』(集英社)
日露戦争前夜から第2次世界大戦までの半世紀にわたって、満州の架空都市を舞台に知略と殺りく、都市の興亡を描く。直木賞受賞作となった、史実と虚構が入り乱れる超巨編の戦争小説
『君のクイズ』(朝日新聞出版) クイズ番組「Q-1グランプリ」の決勝で、問題文が読まれる前に早押しボタンを押し、正解した優勝者。不可解な勝利はヤラセか正当な予想か? 対戦相手だった主人公は、真相解明のために、決勝の問題を1問ずつ振り返っていく──
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生成AI時代に必要なのは「意地の悪い」執筆技術?

──小川さんの作品は、イメージがストレートに伝わる、ある意味とても癖のない文体で書かれているという印象です。言葉の選択にはどのようなポリシーがありますか?

 ポリシーは明確にあります。第一は「自分のエゴで書かない」こと。なので、癖がないと言ってもらえるのは理想的ですね。小説家になる前は研究者として論文を書いていたので、必要なことを端的かつ確実に伝える下積みはあったと思います。小説では「自分が物知りだと思われたい」とか「こういう言葉を使ったらカッコよさそうだ」といった種類の自己満足を最も警戒しています。

 それは、物語世界をできるだけ小説と読者だけの空間にしたいからなんです。そこに作者のエゴが入ってくると、余計な雑音になってしまう。自分が小説を書きながら見ている世界と、読者から見える世界を最大限に一致させるために、最適だと思う言葉を常に探しています。

──『S-Fマガジン』23年4月号の企画では、生成AIに自作の『地図と拳』を学習させ、短編を実作する企画に参加されていました。小説家として、生成AIが今後もたらす影響についてはどのように考えていますか?

 生成AIの仕組みは「次に来そうな単語ランキング」の上位を選び続けることで、文字列を生成するというもの。面白いのは、ランキング1位の言葉を選び続けると、同じ話がループしてしまい、うまく機能しないらしいのです。なので、6位や8位、たまに200位の言葉をどういうバランスで入れれば「それらしい回答」だと人間を納得させられるかを評価基準にして、開発が行われている。

 つまり「相手を納得させる文章」とか「それらしい文章」のジャンルで勝負すると、人間はすぐに生成AIに負かされてしまいます。小説家も記者など他の文筆業も、今後は「相手をすんなり納得させない技術」が必要になってくるのではないかと、漠然と感じています。「本当にそうなのか?」「そんな考え方ってあるのか?」といった引っかかりをどう作れるか。言葉は悪いですが、ある意味で「意地の悪い」ものを書くことに可能性があるように思います。ただ、今の生成AIの技術が人間の納得感を評価軸としているように、最終的に読むのは人間ですから、小説家の仕事がすぐに脅かされるかという点では、僕はそんなに悲観していません。

「読者に良い意味で『こんな話だとは思わなかった』『こんなものは読みたくなかった』と思わせるような小説は、長い目で見ればAIには作りにくい方向性として可能性があるかもしれない」(小川氏)
「読者に良い意味で『こんな話だとは思わなかった』『こんなものは読みたくなかった』と思わせるような小説は、長い目で見ればAIには作りにくい方向性として可能性があるかもしれない」(小川氏)
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小説家は自分1人でできる仕事の究極形

──小説家になる前は東京大学の大学院で、数学者でコンピューター科学の父といわれるアラン・チューリングについて研究をされていたそうですね。小説家の道へと方向転換をしたのはなぜでしょう?

 もともと、人から指図をされたり、人に指図したりするのが大嫌いなんです。会社や組織の中で生きていくなら、そういうシチュエーションは避けられないですよね。自分のやりたいことをやりたいタイミングでできないとか、誰かに頼んだ仕事の出来に満足できないとか、満足できないけどそれを口に出せないとか(笑)。そういうことがすべて、耐えられないくらい嫌いです。

 他人となるべく関わらずに、そのようなシチュエーションと無縁でいられる、自分1人で完結できる仕事は何か。最初は研究者の道ではないかと思いました。けれど、実際に研究の世界にいると、チームプレーが必要だったり、煩雑な雑務がたくさんあったりして、理想からは遠かった。その点、小説家は1人で調べて考えて、書く。何もかもがほぼ自分の意志で完結する仕事の究極形だと思います。書くのも1人、読むのも1人という小説の世界が好きですね。

──大学院在学中の15年に「ハヤカワSFコンテスト」で『ユートロニカのこちら側』が大賞を受賞し、デビューしています。投稿先にこの賞を選んだのはなぜですか?

 SFが好きだったのが最大の理由です。好きなジャンルで書かないと、書き上げた作品が面白いかどうか、自分で判断できないとも思いました。また当時は、長く休止されていた早川書房のSF新人賞が、伊藤計劃ブームを受けて復活してすぐの頃だったので、新人SF作家を積極的に育てようという機運も高まっていたと思います。最終候補に残った作品は書籍化率も高かったので、自分が作家としてデビューできそうな確率が最も高そうだという点でも、この新人賞を選んだのです。

──現在はSFから戦争小説まで、ジャンルを横断して作品を発表しています。職業作家としては、自分が書きたいテーマと、読者に読まれるものとのバランスをどのように考えていますか?

 確固としたセオリーはなく、常に必死に探しています(笑)。世間で人気のあるものと、自分の好みが一致しないことがしばしばあるため、視点が偏っている自覚はあります。とはいえ、全く価値の分からないものを、世間に合わせて書くこともできない人間なので、偏った自分の興味関心の中で、どこが世間と重なるのか、重なる人数は1万人なのか100万人なのか、どうすれば増やせるのか、といった点は常に考え続けていますね。

──作中には、野球の「ボール」「ストライク」「アウト」という異なる品詞が混在する用語の由来について、全く疑問に思わない野球部の友人たちと、こうした疑問を素通りできない自身の視点の差を考える場面がありますね。

 こういう小さな疑問や矛盾点に引っかかり続けて生きてきました。気になって他の人に疑問を投げかけてみても、だいたい「言われてみれば確かにそうかもね」が半分、「どうでもよくない?」がもう半分くらい。多くの人は素通りして生きているし、「そんなことを気にするやつはおまえだけだ」とも言われます。小説家になってからは、細かい疑問や矛盾が気になって身動きが取れなくなったり、深掘りし過ぎたりする自分の特性を生かせる場ができました。

「むしろ小説を書く上では、物語の源泉や強みになることも多く助かっています」と小川氏
「むしろ小説を書く上では、物語の源泉や強みになることも多く助かっています」と小川氏
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──今は新作長編に取り組まれているとか。

 12月から新聞で新連載が始まる予定で、ベンチャー企業をテーマにした作品を準備しています。もともと時価総額などの企業価値というものが、かなり適当に決まっている事実に興味がありました。そこを深掘りしていくと、世の中の本質的な問題を描けるのではないかと構想しています。利益がまだろくに出ていないビジネスモデルや企業に対して、価値がついていく過程にある虚構性やインチキ性が面白く、取材を続けているところです。(編集部注:2023年12月8日から千葉日報で連載小説『オルロージュ』がスタートした)

著者が薦める本
佐藤 究『幽玄 F』(河出書房新社)
佐藤 究『幽玄 F』(河出書房新社)
 幼い頃から飛行機に魅了されてきた少年が、最速の飛行機に乗りたいがためだけに航空宇宙自衛隊を目指し、F35-B戦闘機を操る天才パイロットになる──。「とにかく飛行機にしか目がない男の世界が、圧倒的に面白い」。(小川氏)

(写真/小西範和)