早稲田大学で箱根駅伝5区を4年連続で務め、リクルート所属時代には有森裕子氏、高橋尚子氏の強化にも携わった金哲彦さん。62歳の今もトレーニングを欠かさず、先日はボストンマラソンにも参加した。走り方にはその人の仕事ぶりが出る——そう語る金さんに、走ることと仕事、そして人生の重なりについて聞いた。

妻の心配を振り切って「封印」を解いた理由

 サブスリー(フルマラソン3時間切り)を最後に達成したのが51歳のときです。記録は2時間57分。ただ、練習もレースも本当につらかったので、それきり記録への挑戦は封印していました。

 転機はNHKの番組「ランスマ倶楽部」でした。“還暦でのサブスリー”にチャレンジしてみないか、という話が持ち上がった。ただそのとき、妻は末期がんの闘病中でした。サブスリーのことを話すと、「あまり、むちゃしないでほしい」と言われました。51歳のチャレンジでは、トレーニングに集中するあまり会話が減ってしまったことがあって、そのことを気にしていたんです。僕の体のことも心配してくれていた。その言葉を聞いてすごくためらいました。

 家族のことだけを考えれば、やるべきではなかったのかもしれない。でも、番組を通して同世代の方たちの励みになるのであれば、それも自分の役割だと思って、挑戦することを決めました。

 当然、50歳のときと同じやり方は通用しませんでした。最初の挑戦では、右のハムストリングが肉離れしてしまったんです。完走はしましたが、記録は3時間16分ほど。サブスリーには届きませんでした。しかも、この挑戦に向けたトレーニングの途中で妻が亡くなった。56歳でした。まだまだやりたいことがたくさんあっただろうと思うと、喪失感は半端じゃなかった。精神的にはかなり厳しい状態でしたが、むしろ必死に走ることで、そのつらさをどうにかしのいでいたところがあります。

初めてのアクシデントでわかったこと

 2回目の挑戦は2025年の「大田原マラソン」でした。前回の反省を踏まえて慎重に体をつくり上げ、仕上がりは良かった。ところが本番で追い込みすぎて過呼吸になってしまった。39km地点まで2時間56分ペースで来ていたのに、体が硬直して動けなくなり、救急車で運ばれました。「走れなくなる」という経験は、自分自身では初めて。選手のコーチとして過呼吸は何度も見てきたのに、自分がなるとは思わなかった。しかも、その失敗した状態のまま番組が終わってしまったんです。

 今回、きっかけはテレビの企画でしたが、妻のことや自分のメンタルのことを経て、この還暦2回目の挑戦あたりから、トレーニングそのものが面白くなってきたんです。

 以前は20kmを4分/kmちょっとのペースで走っていくような練習をしょっちゅうやっていた。今は腹八分目で追い込みすぎず、けがをしないように、心拍数も上げすぎない。スマートウオッチで数値を見ながら走るようにしたら、けがをしないから練習も継続できる。そしたら体もちゃんと変わってきて、自信もついてきた。

 僕は50年近く走ってきて、トップアスリートの指導もし、解説もしてきました。走ることはだいたいわかっているつもりでしたが、自分の体で試してみるとまだまだ発見がある。62歳なりのスピードでも、いい走りができたときの筋肉の疲労感が違う。数週間続けると、使っている筋肉のつき方まで変わってくるんです。それが楽しくて仕方ない。

 何かを克服している、という感覚ではないんですよね。「今日も練習しなきゃ」じゃないんです。「楽しい」が先にある。走ることで体もメンタルもどんどん良くなっていく、その実感自体が面白い。

 妻のことは今も引きずっていますが、走っていなかったら、おそらく鬱(うつ)になっていたんじゃないかと思います。

走り方に、その人の「仕事ぶり」が出る

 走り方には、その人の性格がはっきりと出ます。駅伝やマラソンの中継を見ていると、走りながらキョロキョロしている選手がいたりする。不思議と、僕ら解説者はすぐにわかるんです。この選手は今日は落ち着きがないな、後半で失速するだろうなって。記者会見でも顔を見ただけで、この選手は今回のレースではちょっと厳しそうだな、とだいたいわかる。競馬ファンが、パドックで馬の気配を見るのに近い感覚ですね。

 逆に、準備期間にしっかり練習を積めている選手は、顔つきも体つきも、色艶まで違う。練習そのものだけじゃないんです。食事、睡眠、生活のすべてをレースに集中させて、もはや修行僧のような日々を送っているわけですから。それができている選手はどっしり構えていて、スタートしてからの落ち着き方がまるで違います。

 市民ランナーでもエリートランナーでも、記録を狙う人の本質は同じです。サブ4、サブ3といった壁を越えようとするなら、計画的に取り組まないと届かない。まるで、一つの作品を作り上げるような地道な作業とも言えますね。

読書家でもある金さんの本棚には、ビジネス書から心の整え方まで、幅広いジャンルの本が並んでいる。多様な知識を得ることによって、金さんのランニング哲学はつくられている。
読書家でもある金さんの本棚には、ビジネス書から心の整え方まで、幅広いジャンルの本が並んでいる。多様な知識を得ることによって、金さんのランニング哲学はつくられている。

個人競技だから「自分自身」が問われる

 ランニングは個人競技だからこそ、自分自身をどうコントロールするかが問われます。逆に、チームワークのような要素は教えにくい分野でもある。そこは、青学大陸上部の原晋監督のほうが得意でしょう。僕が伝えられるのは、自分自身のペース配分をどう組み立てるか、ということです。

 働くみなさんで例えると、3年後にこういう立場で仕事をしたい、という目標があるとします。それはフルマラソンでサブ4を達成したい、というのと同じ構造です。ゴールから逆算して組み立てる。1年目から無理に飛ばしても、空回りするだけですから、まずは生活習慣や基礎を見直すところから始める。もう少し寝る、食事を整える、普段から歩く。そうした土台づくりが欠かせません。

 それに、無理をして一度で達成できても、楽しい記憶は残らないんです。たしかに「達成」はしたかもしれない。でも、「ただつらかった」だけで、もしかしたらむなしくなるかもしれない。そうなると、次はもうやらなくなる。継続できないやり方では、その先がないんです。楽しいから続くのであって、続くからこそ変われる。ランニングが教えてくれるのは、目標に対して向かっていく工程なんですよね。

経営者が「朝ラン」に取り組む理由

 経営者や優秀なビジネスパーソンに走る人が多いのは、まず、体力がつくからです。いつも風邪をひいているようでは信用にも関わりますから。体力がつくと、自信もついてくる。特に朝に走ることで、1日のコンディションを整えやすくなるんです。

 もうひとつ、経営クラスの方は孤独なんですよね。最終的な決断を一人で下さなければならない。その思考の時間を、朝のランニングで確保している人が多いんです。速く走る必要はなく、トコトコと走りながら頭の中を整理していく。誰だって迷うじゃないですか。こうした方がいいのか、ああした方がいいのか。パソコンの前で何時間考えても出てこない答えが、走っていると不思議と整理されてくる。

 走っていると頭が真っ白になる瞬間があって、そこに新しい企画や仕事の段取りが、ふっと浮かんでくる。走っているときの頭ってすごいんですよ。いいアイデアが出たときに忘れないよう、僕もスマホを持ってたまにメモしながら走っています。

 それから、走る仲間の集まりには独特の空気があります。相手の肩書をわざわざ聞かないんです。「どちらにお勤めですか」とは言わない。走ることだけで、ただ楽しくつながれる。普段、肩書を背負っている人たちにとって、肩肘張らずにいられる場であり、サードプレイスになれる力がランニングにはある。しかも全員がポジティブ。走ったあとの飲み会で愚痴を言う人は、まずいません。「この間のレースで失敗しちゃってさ」って言っても、みんな笑いながらですから。

 走っているときって、誰もが純粋になれるんですよ。速い遅いは関係なく、その人なりに頑張っている。リレーマラソンなんかだと、走っている仲間をみんなで応援するんです。それが楽しいし、今度は自分が走るときに応援される。頑張っている人を応援して、応援される。ただそれだけのことが、ランニングの世界にはあるんです。

 また、マラソンは個人競技とはいえ、必ずしも一人で走る必要はないんです。夫婦でも、友人でも、同僚と一緒でもいい。走るときって、同じ方向に並んで進んでいるだけだから、顔をあわせると言えないこともポロッと言える。食事で言えば、テーブル席よりカウンターで、すしを食べているときの感覚に近い。走ることは、コミュニケーションの手段にもなるんですよ。

走ることは、「自分を見失わない」こと

 そんなランニングの世界に身を置いて、もう半世紀近くになります。現役を退いてからも、大腸がんの手術で半年ほど離れた時期を除けば、ほとんど欠かさず走り続けてきました。仕事が不規則なので、夜に走ることもあれば、朝や真っ昼間に走ることもあります。週末はだいたいイベントの仕事が入るため、合間を見つけて走る日々ですね。

 走ることについて、手前味噌ですが自分の本で一冊挙げるなら、『 金哲彦のマラソンレース必勝法42 』(金哲彦著、実業之日本社)をおすすめしたいです。この本にも書いているのですが、僕がよく話すのが、「タイムの貯金はカラダの借金」という言葉です。スタート直後、体が元気なうちに少しでもタイムを稼ごうとペースを上げてしまう人が多い。でも、それは疲労を蓄積させているだけで、30kmを過ぎると借金として返ってくる。いわゆる「30kmの壁」の正体は、これです。

『金哲彦のマラソンレース必勝法42』(金哲彦著、実業之日本社)<br>レースを成功に導く秘訣や失敗しないための注意点を、42のポイントに凝縮した一冊。「レース10日前〜レース本番」に特化しているのが最大の特徴で、スタート前の準備から、レースのペース配分とメンタル維持、レース後のケアまでを解説する。「“タイムの貯金はカラダの借金”って言うと、みなさんハッとするんです(笑)」と金さん。(画像クリックでAmazonページへ)
『金哲彦のマラソンレース必勝法42』(金哲彦著、実業之日本社)
レースを成功に導く秘訣や失敗しないための注意点を、42のポイントに凝縮した一冊。「レース10日前〜レース本番」に特化しているのが最大の特徴で、スタート前の準備から、レースのペース配分とメンタル維持、レース後のケアまでを解説する。「“タイムの貯金はカラダの借金”って言うと、みなさんハッとするんです(笑)」と金さん。(画像クリックでAmazonページへ)
 仕事も同じではないかと思うのです。短期間で無理をすれば、後々必ずその負荷が返ってきてしまう。だから、まだ走ったことがない方でも、この本の「ペース配分」という考え方は十分に応用できると思います。もちろん、レース以前の体幹の使い方や、走ることの土台づくりも大切です。これは、『 3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから 』(金哲彦著、光文社新書)の方でも、ヒントを得てもらえるのではと思っています。この本は私ががんになったときに、遺書代わりに書いた本でもあります。

『3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから』(金哲彦著、光文社新書)(画像クリックでAmazonページへ)
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 最終的に、仕事はチームで成果を出すものです。ただ、チームの中にいたとしても「自分自身」がまず大事なんです。走ることは、自分を見失わないことでもある。50年走ってきて、僕がランニングを通して伝えられるのは、結局それに尽きるのかもしれません。

取材・文/金澤英恵 取材・構成/細谷和彦(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子