ランニングコーチの金哲彦さんにとって、「走る」とは何なのか。アイデンティティーに悩んだ少年時代、そして9年間の闘病の末に妻をみとった喪失——。その人生を振り返ったとき、後から腑(ふ)に落ちる形で出合ったのが、2冊の本だった。いま金さんは、走ることが自分を救ってきたのだと静かに語る。

同郷の作家が書いた「分人」という考え方

 僕は福岡県の北九州市出身。平野啓一郎さんは同郷で、北九州の高校を出ていらっしゃる。最初に芥川賞を受賞されたときに興味を持ちました。この『 私とは何か——「個人」から「分人」へ 』(平野啓一郎著、講談社現代新書)は、別の本を読んでいるなかでこの本の書名を見かけて、手に取ったものです。

『私とは何か——「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎著、講談社現代新書)<br>芥川賞作家・平野啓一郎が「分人」という新しい人間観を解説した一冊。たった一つの「本当の自分」など存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて本当の自分であると説き、日常の人間関係の捉え方を変えてくれる。「この考え方で、すごく楽になりました」と金さんは語る。(画像クリックでAmazonページへ)
『私とは何か——「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎著、講談社現代新書)
芥川賞作家・平野啓一郎が「分人」という新しい人間観を解説した一冊。たった一つの「本当の自分」など存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて本当の自分であると説き、日常の人間関係の捉え方を変えてくれる。「この考え方で、すごく楽になりました」と金さんは語る。(画像クリックでAmazonページへ)

 「分人」という考え方には、強く共感しました。もう、本に書いてある通りなんですよね。人は対人関係ごとに違う顔を持っていて、そのどれもが本当の自分である、という考え方です。

 自分はアイデンティティーについて、若い頃からずっと考えてきました。在日韓国人という出自があり、名前を変えたこともあった。アイデンティティーというものに向き合わざるを得ない境遇だったんです。

 若い頃は、アイデンティティーは一つでなければならない、そうでないと自分が分裂してしまう、と思い込んでいました。でも、状況や立場によって使い分けていい、それぞれが本当の自分なんだと言われたとき、すごく楽になった。たしかにね、と。この本がくれたのは、そういう自由でした。

走ることが、自分を強くした

 在日韓国人としてのアイデンティティーは、ここ数十年で大きく変わりました。今はK-POPも韓流ドラマもあって、韓国のイメージはずいぶん良くなっている。でも、僕らの子どもの頃は違いました。

 小学校のときは通名を使っていたので、周囲はそこまで意識していなかったかもしれません。それでも、私の心の中には疎外感のようなものがあった。感じる必要などないのに、どこかでそう思ってしまう。暮らしも決して裕福ではありませんでした。

 当時はけんかばかりしていました。悔しくて、すぐ手が出てしまう。実際に差別されていたわけではなくても、何か言われると差別のように感じて、腹を立てていたんです。

 でも、中学で本格的に走るようになってから、もうまるっきり変わりましたね。周りから尊敬されるようになって、自分というものを、得意なことで示せるようになった。それは大きかった。

 あのとき走ることに出合っていなかったら、どうなっていたかわかりません。

妻をみとって、読んだ『DIE WITH ZERO』

 『 DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール 』(ビル・パーキンス著、ダイヤモンド社)を知ったのは、たしかアマゾンのレビューだったと思います。本が出てすぐの頃でした。

『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』(ビル・パーキンス著、ダイヤモンド社)<br>「死ぬときにゼロで死ね」という大胆な提案を軸に、お金と人生の関係を根本から問い直すベストセラー。人生の各ステージにはそのときにしかできない経験があり、老後のためにひたすら貯め込むのではなく、適切なタイミングで経験に投資することの大切さを伝える。「ゼロで死ぬことはないかもしれない。でも、有意義な考え方は持っておきたい」と金さんは話す。(画像クリックでAmazonページへ)
『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』(ビル・パーキンス著、ダイヤモンド社)
「死ぬときにゼロで死ね」という大胆な提案を軸に、お金と人生の関係を根本から問い直すベストセラー。人生の各ステージにはそのときにしかできない経験があり、老後のためにひたすら貯め込むのではなく、適切なタイミングで経験に投資することの大切さを伝える。「ゼロで死ぬことはないかもしれない。でも、有意義な考え方は持っておきたい」と金さんは話す。(画像クリックでAmazonページへ)

 妻が9年間がんと闘って、亡くなった。その後の整理は、全部僕がやったんです。遺言書もきちんとつくってはありましたが、それでもいろいろなことが入り組んで、片付くまでに2年ほどかかりました。僕自身がそうだったように、その大変さは経験した人にしかわからないと思います。

 この本はそういう経験をした後に読んだこともあり、腑(ふ)に落ちるものがあった。お金は墓場までは持っていけない。子どもに残しても、それが良い結果になるとは限らない。消費も、モノからコトへ変わっている。頭ではわかっていたことが、実感として入ってきた。

 なんとなくモヤモヤと考えていたことが、この本を読むことですごくスッキリしました。だからといって、すぐに知り合いを大勢集めて盛大なパーティーを開こうとは思いませんけれど(笑)。さすがに「ゼロで死ぬ」ことはないかもしれませんが、お金の使い方、人生の時間の使い方について、自分なりの有意義な考えは持っておきたいなと。

 僕はいまこんなに元気ですが、またいつがんになるかわかりません。ただ、再発しても、怖くはないんです。自分は経験していますし、妻の闘病から最期までをすべて見てきましたから。何をしなければならないか、全部わかっている。

 ただ、もしそうなったとき、残りの年月には限りがあります。そのときに「どう過ごせばいい人生だった」と思えるのか。その指針として、この本はきっと役に立つと思います。

幸せは「缶ビール1本」のなかにある

 ある程度の年齢になったら、「何をしているときが一番幸せか」を考えるべきだと思います。若い頃はあれもこれもやりたいことがあるけれど、この歳になると、たいていのことはもうやっている。

 先月の「ボストンマラソン」に参加してきましたが、以前も走ったことがありますし、海外に行くこと自体の高揚感は若い頃ほどではありません。でも、走ること自体は毎日楽しい。本当に、走ることそのものが楽しいんです。今日もこの後走りますけれど(笑)、走り終わって帰ってきて、シャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、料理を作りながら飲む。それが最高の幸せです。全然、お金のかかることではないんです。

 お金を使って得られる幸せとは何だろう? と考えることがあります。僕はひょっとしたら、もっと走る人を増やすために寄付をするかもしれません。こんなに幸せを感じられることがあるのに、まだ始めていない人がいる。もったいないから一緒にやりましょうよ、と広めていくためにお金を使う。僕の「ゼロで死ぬ」は、そういう使い方かもしれないです。

 まず、外に出ることから始めよう

 いま、悔しい思いをしている方や、パートナーやご家族を亡くされてつらい方もいらっしゃると思います。ただ、日々の生活の中に何かしら体を動かす習慣がないと、気持ちは沈む一方です。

 そういう方に、僕からアドバイスするなら、最初は走らなくていいので、まず外に出てみてくださいと言いたいです。自然のある場所に身を置くのが一番いい。僕の家の近所には緑豊かな公園があるのですが、そういうところに行って、ベンチに座るのではなく、歩く。音楽もラジオも要りません。小さな花が咲いていたり、新緑がきれいだったり。それだけでふわっと幸せを感じられる瞬間がある。そういう何気ない幸せ感から、多分始まると思います。

 それから、2分でも3分でもいいから、走ってみる。走るというのは、抗重力筋を使うリズム運動で、幸せホルモンのセロトニンが出ます。気持ち良さが一気に増す。長く走る必要はありません。ちょっとだけでいいんです。

 僕にとって走ることは、子どもの頃の疎外感を変えてくれたものであり、妻を亡くした喪失感をしのぐ手段でもありました。走っていなかったら、きっと心が壊れていたと思います。同じように、走ることで前を向ける人が一人でも増えたらうれしい。それが今、残りの人生で一番やりたいことかもしれません。

ちなみに、記録が出ないとき、走れないときの対処法について尋ねると、金さんはこう答えた。「20代の頃、けがで1年近く走れなかった時期があるんです。悶々(もんもん)とするなかで、ふとNHKで見た永平寺の雲水(修行僧)たちが気になって見に行った。厳しい修行をしているはずなのに、穏やかな顔をしている彼らを見て、気持ちがふっと落ち着いた。それからは、うまくいかないときは旅に出たり場所を変えたりして、一旦リセットすることを大事にしています」
ちなみに、記録が出ないとき、走れないときの対処法について尋ねると、金さんはこう答えた。「20代の頃、けがで1年近く走れなかった時期があるんです。悶々(もんもん)とするなかで、ふとNHKで見た永平寺の雲水(修行僧)たちが気になって見に行った。厳しい修行をしているはずなのに、穏やかな顔をしている彼らを見て、気持ちがふっと落ち着いた。それからは、うまくいかないときは旅に出たり場所を変えたりして、一旦リセットすることを大事にしています」

取材・文/金澤英恵 取材・構成/細谷和彦(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子