新型コロナウイルス禍のSNSに突如現れ、「タワマン文学の旗手」と呼ばれた麻布競馬場さん。顔も本名も明かさない覆面作家として活動し、デビュー2作目が早くも直木賞の候補に選ばれました。そんな麻布競馬場さんの新連載が始まります。兼業作家の裏話、港区ネタ、Z世代論など、麻布競馬場さんにしか書けない連載をお届けしていきます。連載第1回の原稿が届いたのは、なんと直木賞落選の結果が出た翌日の夜でした……(編集部より)

(イラスト=副島あすか)
(イラスト=副島あすか)

 2024年7月17日、第171回直木三十五賞の発表があった。今年の2月に出した小説『令和元年の人生ゲーム』を候補作に選んでもらっていたので、生まれて初めて当事者として迎える直木賞となった。初めて小説を書いたのは2021年の暮れということで、我ながらよくぞ順調に進むものだと感心している。

 昔から妙に運がいい。たとえば本作についてだと、担当編集者が「演説がうますぎる都知事選候補の妻」として一躍有名人になり、本作まで便乗売れするなんてことがあった。助けてくれる人たちへの感謝は尽きない。

こんなに緊張感のない待ち会は初めて

 夕方から始まる選考会の結果は19時前後に出るとのことで、関係者が集まって当落を知らせる電話を待つ、通称「待ち会」なるものを開くのが業界の伝統だという。気まずい沈黙の中でスマートフォンを囲むのは性に合わなさそうなので、南青山にある行きつけのワインバー「赤い部屋」を貸し切りにしてワイワイ飲みながら待つことにした。

 各社の担当編集者やお世話になっている書店員さん、それから作家仲間といった20名ほどの招待客が集まり、マグナムボトルを含む20本以上のワインが空いた。これまでいくつもの待ち会に出てきたという某社の編集者は「こんなに緊張感のない待ち会は初めてだ」と笑っていたが、主催者である僕自身が緊張感のない人間なのだから仕方がない。果報も悲報も、おいしいお酒でも飲みながらのんびり待つくらいがちょうどいい。

 僕の著書は残念ながら次点となり受賞を逃したものの、Amazonの在庫が切れるくらい本が売れて緊急重版が決まったし、デビュー戦としてはまずまずの出来だろうと満足している。本が売れない時代にこういうお祭りがあるというのは大変心強く、ありがたいことだ。日頃からお世話になっている人たちと一晩中騒げたのも楽しかった。これから出す本すべてを直木賞候補にしてもらい、その都度盛大な待ち会を開きたいと心の底から願っている。

 普段は会社員をやっていて、平日はフルタイムで働いている。いわゆる兼業作家だ。発表の翌日は有給休暇を取って、例の候補作を書くための取材でお世話になった人たちに挨拶回りをして、そのあと友達がやっている高円寺の立ち飲み屋「酒チャンス」に立ち寄った。

 その日は不動産関係の人たちが集まっているようで、晴海フラッグの転売組がなかなか苦戦しているだとか、200万くらいで買える沖縄の築古マンションが狙い目なのだとか、濃密な噂話が次々と漏れ聞こえてくる。僕は晴海フラッグも沖縄の築古マンションも買う予定がないが、こうやって自分とは縁のない遠くの世界を覗(のぞ)き込むことは大切な趣味のひとつだ。別に小説を書くためにそうしているのではなく、単純に昔からそういう性分だった気がする。

現実《リアル》はつくづく面白い

 僕は現実《リアル》が好きだ。空想《フィクション》を仕事としている身でそう宣言するのは変な話だと思うかもしれないが、やっぱり現実はつくづく面白い。僕がどれだけ空想を練ったところで、翌朝には新聞にもっと面白い現実が載っているのではないかと不安になるほどだ。むしろ、現実を小説に持ち込み、編集して空想にすることこそが僕の文芸活動だ。ある取材で、記者の方から「なんだかAIみたいですよね」と言われたことがある。脳内で機械学習した現実をベースに小説を自動生成しているようなものだから、確かにその通りかもしれない。

 そういう理由で、僕は日々大量のニュースを摂取している。新聞や雑誌を読み、ネットの媒体も欠かさずチェックする。コロナ禍の暇つぶしとしてX(旧Twitter)で小説を書いてバズっていたのが作家デビューのきっかけだったが、同サービスの最も重要な利用目的は、いまでも情報収集だ。

 練りに練った僕のタイムラインには、今日も「スタバのコーヒー持ち込み禁止」という株式会社キーエンス(高収益と高年収でおなじみの大阪のメーカーだ)のユニークな社内ルールに関するニュースから、水質改善をアピールするためにパリ市長がセーヌ川を泳いだ(写真を見る限り、あまり進んで入りたくない水の色をしていた)というニュースまで、それはもう様々な「現実」が次から次へと流れてくる。

 僕に自慢できるものがあるとすれば、それは一日あたりのニュースの摂取量と、それから会ってきた人の数だろう。人もまたニュースだ。社交的な性格だから飲み会なんかに誘われたら極力顔を出すし、そのうえ絡まれやすい顔をしているようで、ひとりで飲んでいるとカウンターで隣に座ってる人から話しかけられることも多い。初めて会う人は、初めて知ることをたくさん持ってきてくれる。

 兼業作家は専業作家と比べると執筆に充てられる時間が限られるものの、一方で社会の最前線で面白い人や出来事と出会うことができる(それも会社からお金を貰いながら!)という非常に大きな利点がある。僕にとってはその利点のほうが大きいから、おそらくは死ぬまで兼業でやっていくことになるだろう。

目を動かし、足を動かし、最後に手を動かす

 「麻布くんさ、いま軽井沢が面白いんだよ」と、昨晩の待ち会で耳打ちしてくる人がいた。彼自身もそうであるように、コロナ禍とそれに伴うリモートワークの普及に後押しされる形で、いわゆる港区経営者たちが挙(こぞ)って軽井沢に別荘を購入しているという話までは僕も聞いていたが、その先までは把握できていなかった。「避暑旅行も兼ねてさ、みんなで軽井沢の別荘に遊びに来ない?」だなんて誘われたら、そりゃ行くに決まってる。

 世界には、死ぬまでに見尽くせないほどの面白い現実が存在しているに違いない。そうである以上、ぼんやり過ごしている暇なんてないのだ。目を動かし、足を動かし、そうして最後に手を動かして小説を書く。僕はそうするのが好きだし、どうやら人は小説家に対して面白い現実を紹介したがる傾向があるらしく、そこに不思議な好循環が生まれている感じもする。そういう意味では、小説家というのは30代にしてようやく出会えた天職なのかもしれない。

 ありがたいことに、今月も来月もカレンダーは予定でいっぱいだ。渋谷で会費3万円の「グルメパーティー」なるものに出る予定があると思えば、翌週には秋田に八郎潟を見に行く予定があったりもする。そうやって、僕が小説家としての役得を最大限に活用して目撃した現実を、ここで皆さんにお裾分けできればいいなと思う。

日経ビジネス電子版 2024年7月25日付の記事を転載]