台風や地震が日本列島を襲い、スーパーなどの店頭からお米が姿を消す「米騒動」にも見舞われた2024年の夏。「タワマン文学の旗手」と呼ばれ、「お米との付き合い方に悩んでいる」覆面作家の麻布競馬場さんは、日本全国のおいしいものに詳しい「先輩」に誘(いざな)われて、8月の半ばに秋田県の八郎潟を訪ねます。そこで待っていたのは……(編集部より)

神楽坂に「レテール」という素晴らしいレストランがある。本店はパリにあるし、ジャンル上は一応フレンチということになるのだろうが、シェフの田篭彬さんはコースの最後に必ず、パスタやリゾットといった炭水化物をたっぷりと出す。それはイタリアンへの憧憬によるものではなく、「だって、日本人なら炭水化物で締めたいじゃないですか」という単純な理由によるものだとシェフは主張する。まったくもって賛成だ。
そんなことを言いながら、しかし僕の家には炊飯器がない。明確には覚えていないが、いつかの引っ越しのタイミングで処分してしまったらしい。ただでさえ外食が多いし、たまに自炊する日もカロリー調整のために味噌汁くらいしか食べないから、我が家の食卓には炊きたてのごはんが登場する隙間がないのだ。
そんな「お米離れ」は僕だけの現象ではない。ここ数年のうちに炭水化物はすっかり国民的悪役になってしまい、和食屋さんにランチに行っても「ごはん少なめにしてもらえますか?」と、まるでスターバックスラテの氷少なめみたいなノリで注文する人が僕の周囲にもかなり増えた印象がある。
八郎潟に行くべきだ。行けば分かる
「えっ! 八郎潟、行ったことないの!?」
ある日の夕方。赤坂のジャズ喫茶「ボロンテール」で赤ワインを飲んでいたら、さっきまで一緒にポッドキャストの収録をやっていた先輩から半ば叱られるようにそう言われた。何かの弾みで「お米との付き合い方を悩んでるんですよね」と相談した結果、巡り巡って「君はとにかく秋田の八郎潟に行くべきだ、詳しいことは行けば分かる」という結論を押し付けられたのだ。
八郎潟? 日本地図を見ていると、秋田のあたりに湖に浮かんでいるらしい島状のものがあることは覚えているが、恥ずかしいことに僕はそれが何なのかよく知らないし、八郎潟がお米とどう関わってくるのか見当もつかない。
大学時代に福島の「スパリゾートハワイアンズ」に行ったきりで、 東北エリアに関してはまったくと言っていいほど知見がない。「そこまで言うなら一緒に行ってくださいよ」と、僕は言い出しっぺの先輩を巻き込んで、8月の半ばに男鹿半島へ旅に出ることにしたのだった。
「いいねぇ、やっぱり秋田と言えばピザだよねぇ」
目の前にコトリと置かれた円形の炭水化物を前にして、先輩が感嘆の声を漏らす。
東京駅7時発の東北新幹線で4時間。秋田駅に到着した僕は、なぜかピザを食べていた。まずはランチで腹ごしらえだ、と先輩が連れて行ってくれた秋田市民市場にあるピッツェリア「ゼッキーニ ピッツァ バンカレッラ」は彼の行きつけらしく、トマトとアンチョビのピザをつまみながら今日も優雅に赤ワインを飲んでいた。世田谷区生まれ世田谷区育ちのくせに、この人はなぜか全国各地のおいしいお店に詳しい。
「お米の旅なのに、小麦からスタートしていいんですか?」
「大丈夫、八郎潟に行けば分かるから」
不安な僕とは対照的に、先輩は余裕の表情を保ったままだ。奥羽本線で最寄り駅まで行き、そこからは手配していたタクシーで西へ向かう。残存湖、と呼ばれるほとんど川みたいな幅員の水面を越えると、日本のものとは思えない真っすぐな道が延々と続いている――ここが八郎潟干拓地だ。
頂上が海抜0mの山に登る
琵琶湖に次ぐ、日本で2番目に大きい湖が姿を消した。かつては広々とした汽水湖であった八郎潟の干拓事業は江戸時代からたびたび計画が浮上し、そのたび財政的な理由などで頓挫していたものの、戦後の食糧難を解決するための一大国家事業としてようやく実施が決まり、昭和32年にはついに着工となった。浚渫(しゅんせつ)船をいくつも走らせ、そこで集めた湖底の砂で堤防を築いて水を抜く(埋め立てと干拓のもっとも顕著な違いは、この「水を抜く」という点にある)。言葉にするときわめて単純に思える一連の作業がいかにダイナミックで、そしていかに困難であったか、干潟の西端にある大潟村干拓博物館に行けばすぐに理解してもらえるはずだ。
とにかく、かつて八郎潟があった場所には大型トラクターやヘリコプターを用いるアメリカ式の大規模農地が整備され、夢を抱いた入植者が続々と集まった。昭和43年には第1次入植者による初の本格的な営農がスタート。もちろん、主力作物は日本人の主食である米だ。食生活の変化によって昭和30年代後半から米の需要量はピークアウトを始めており、昭和45年には減反政策が始まるだなんてことを、きっと当時の彼らは知る由もなかっただろう。
博物館に向かう道中、大潟富士なる山に出くわした。山と言ってもいっても標高4mもない小ぶりな人工山で、頂点がちょうど干拓前の湖水面の高さ、つまり海抜0mになるよう調整されているらしい。23段の階段をあっという間に駆け上がり、山頂から八郎潟干拓地を眺めるとみっしりと生い茂った青草が一面に広がる平坦な大地を覆い、風に吹かれてゆるやかに揺れている。都会に暮らす農業素人の目には見分けがつかないが、田畑複合経営の号令のもと、水田を大豆や小麦のための畑に切り替えた農家も多いそうだ。空腹を丼いっぱいのごはんで満たしたい――そんな純粋な夢の終着点を、そして日本における米作の歴史を象徴する光景を、僕はジリジリと焦がすような日差しの中で数分間、黙って眺めていた。
旅はまだ始まったばかり
「ほら、これは実質的にカレーライスなんだよ」
先輩が上機嫌につぶやく。21時ごろに秋田市内に戻ると、先輩に連れられて僕は「永楽食堂」を訪れた。日本酒好きにとっての聖地のひとつである当店で、先輩はいつもカレールーを頼んで、それで旨味(うまみ)のどっしりした日本酒をチビチビやるのだという。言うまでもなく日本酒はお米で作っているわけだから、確かにそれはカレーライスの再構築と呼ぶべきものだ。
店内にはいかにも熟練の酒飲みらしい中高年だけではなく、東京だと三軒茶屋あたりにいそうな小洒落(こじゃれ)た若者たちも多く集まっていた。顔を赤らめながら盛り上がる彼らの手には、例外なく日本酒のグラスが握られている。彼らもまた、お昼にはピザやパスタを食べただろうか?
行けば分かる、という先輩の予言とは裏腹に、僕はお米との適切な関係をこの旅で発見することができなかった。折しもこの夏は「令和の米騒動」だなんていう言葉が紙面を盛んに賑(にぎ)わせ、多くの人がお米との付き合い方を再考せざるを得ない機会となったのではないだろうか。
何を食べるかはそれぞれの自由だ。今や小麦は日本における重要な食生活の一角を担っているわけだし、日本人は米だけを食えだなんていう謎めいた精神論を押し付けるつもりもない。そういえば、神楽坂のレテールでは締めの炭水化物として「モツ鍋の締めに中華麺入れて煮込んだらおいしいじゃないですか、あのイメージです」と福岡出身の田篭シェフが語る、もちもちとした太麺のパスタが出てくる日がある。僕はそれがたまらなく好きなのだが、次行くときはなんとなく、お米が出てきたらいいなと思う。
お米との関係を模索することは、きっと日本に暮らす僕にとって一生かかるくらい長くて深遠な旅だ。数日の旅行で解決するような簡単な話ではないのだろう。
「さぁ、次はどこに行く? そろそろカニ漁の解禁シーズンだし、豊岡でカニ雑炊という手もあるね。行くべき場所はまだまだ多いよ」
帰りの新幹線で、缶ビールを片手に先輩が言う。そうだ、行くべき場所はまだまだ多い。繰り返す旅の中で、少しずつお米といい関係を築いてゆこうじゃないか。
[日経ビジネス電子版 2024年9月10日付の記事を転載]