世界一周500年の歴史を振り返れば近現代史の意外な側面が見えてくる――日経ビジネス人文庫『8の都市からよむ「世界一周」の世界史』(鈴木淳著)では日本経済新聞記者が自ら旅しながら歴史をたどります。第3回は、主に国家主導だった19世紀までの世界一周の功罪について、本文より抜粋します。
「地球が丸い」はマゼラン隊が確かめた
マゼラン隊による史上初の世界一周やそれに続いた冒険者たちの世界一周の企ては世界の歴史に何を残したのだろうか。ここではその功罪を考察したい。
前回にも少し書いた通り、すでにギリシャ世界で「地球が丸い可能性が高い」ことが科学的には証明されていた。それが世界一周によって実証された。世界がひとつにつながっているということ、そして、世界をひとつのものとして捉える視点はマゼラン隊の世界一周が生み出した思想といっていい。現在のグローバル化の端緒となる出来事だ。
啓蒙思想や科学的思考の浸透にも世界一周は大きく寄与している。トランシルヴァーノが『モルッカ諸島遠征調書』の冒頭にこんなことを書いている。
一本足の人間とか、こびととか、そのほかこれらに類したもので、昔の文筆家が人間というよりもむしろ怪物のごとく書き残しているものが実際に存在しているということを、今日より何人が信じるでしょうか(中略)このたび前記の船に乗って帰還したわがエスパーニャ(スペイン)人たちは球体の世界を一周したけれども、かれらが航行してきた全域にわたって、そのような怪物のような人間には出会ったことがなく、それどころか、現在そのようなものが存在していることも、またかつて存在していたということも一度も耳にしたことがなかったのであります。
(トランシルヴァーノ『モルッカ諸島遠征調書』長南実訳/第1章)
世界の裏側には怪物が住んでいるといった迷信は世界一周の冒険によって退けられた。世界一周によって西洋と東洋、西と東、北と南の知識が集まり、地球に住む人間は結局すべて人間であるという基本的な認識がもたらされた。
もっとも、フェルディナンド・マゼランたちの認識にも科学と迷信が入り交じっている。マゼラン隊の「公式記録員」であるピガフェッタの『最初の世界周航』では、南米パタゴニア(現在のアルゼンチン、チリ)の住民を「巨人」と表現している。巨人は125年生きるとも記録している。ひどい話だが、マゼラン隊は彼らが巨人と呼んだ先住民をだまして捕まえ、スペイン国王への土産にしている(この「巨人」は太平洋航海中に壊血病で亡くなっている)。
他にも、ブルネイを訪問後、ピガフェッタはこんな不思議な話を報告している。曰く、ブルネイの近くにある島にある木の葉っぱは、落ちると自分で歩き出す、と。ピガフェッタの記録は自分たちにとって未知の世界を見る難しさも物語っている。
世界一周は科学の発展にも寄与した。18世紀にフランス初の世界一周を達成したルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの艦隊は博物学者や画家などを同乗させ、タヒチ、サモア、フィジーなど南太平洋の島々についての豊かな知識を欧州にもたらした。フランスの哲学者、ドゥニ・ディドロはブーガンヴィル『航海記』の補遺という形をとった書物を発表し、当時のフランス文明を厳しく批判した。
世界一周と科学の発展の関係について、特筆すべきは19世紀前半に英国のチャールズ・ダーウィンが乗船したビーグル号の世界一周だろう。1831年から1836年にかけて行われた探検で、ダーウィンはガラパゴス諸島などで動植物を観察する機会を得た。その観察が進化論を確立したのちの主著『種の起源』の出版につながる。進化論は世界一周なしには成立しなかったのだ。
国家主導の世界一周の「負の側面」
マゼランに代表される国家主導の世界一周には負の側面もあった。15世紀から19世紀の世界一周の多くは国家による遠征であり、軍事的な側面を伴うものだった。マゼラン隊によるモルッカ諸島への遠征も交易を目的としてはいたものの、必要があれば相手を武力で屈服させて貿易を強いるものだった。
遠征隊が「発見」した土地に関しては勝手に版図に組み込んでいった。案内や通訳のため、現地人を奴隷として連れていくこともあった。時には補給のため海賊行為に及ぶこともあった。
海洋進出で先行したポルトガルとその後を追いかけたスペインは1494年、トルデシリャス条約を結ぶ。欧州以外の地球上の領土について、およそ西経46度より西側で発見された土地をスペイン、東側をポルトガルのものにすることを決めた。マゼラン隊の世界周航後の1529年にはサラゴサ条約が結ばれ、スペインはモルッカの「権利」をポルトガルに譲渡した。マゼラン隊が発見した西回り航路は航海の困難が大きかったため、採算性に乏しかったことが理由とされる。
モルッカ諸島も含めた太平洋の熱帯域では基本的に風は東向きに吹く。このことが南米大陸側からアジアに向かうことを困難にしていた。いずれにせよ欧州以外の土地をスペインとポルトガルが勝手に統治していい道理はないのだが、当時はまだ国際法の概念も成立していない時代だった。ローマ教皇の力を背景とした欧州の力による支配が正当化される時代だった。
ポルトガルやスペインは彼らが「発見した」と主張する土地をある時は友好的にある時は武力で征服していった。ピガフェッタの記録では、マゼランもスペイン王に恭順の意を示したセブ王とは親交を結び、共に食事し、演舞するなど友として積極的に交流したが、逆らうものには容赦なかった。
スペイン国王の名のもとに行われる遠征の遂行のためには、原住民の犠牲を厭わなかった。ピガフェッタの記録の中には悪びれもせず「焼き打ちにした」「水先案内人を無理やり捕まえた」などの記述が残る。モルッカに着く直前には地元の有力者の船を襲い、人質をとって、食料や金品を奪っている。そうして得たものを香辛料などの取引にも使っている。
「原住民」の土地を一方的に支配
ポルトガルやスペインはアジアやアフリカ、米大陸で土地を支配しただけでなく、海も支配した。両国は主要な支配拠点に砦(とりで)を設け、海を監視した。他国の船が近づけば攻撃した。当時は領土獲得と同時に、海に関しても、独占的な所有権を持つという考え方が広がっていた。
こうした考えは、17世紀に大きく修正される。「国際法の父」と呼ばれるオランダのフーゴー・グロティウスは国家間の戦争にもある種のルールが必要だと説いた。また、海洋は共用のものであり、誰でも自由に使えると主張した。その後、数世紀の議論を経て、航海の自由が確立される。20世紀に入り、陸地から12海里を領海、200海里を排他的経済水域、それより外を公海とする現在のルールが完成する。
ポルトガルやスペイン、その後に海洋覇権を握った英国などは世界の植民地化を進めた。英国はアフリカからインドやマレー半島を支配し、19世紀には中国にも触手を伸ばしていた。フランスもアフリカだけでなく、インドシナ半島に進出、同じく中国にも手を出していた。
グロティウスが海洋の自由を唱えたオランダは、1602年に東インド会社を設立して本格的に海洋進出に乗り出した。彼らが東インドと呼んだジャワ島やモルッカ諸島などで武力に訴えて支配領域を広げていった。
ナツメグの世界唯一の産地だったモルッカ諸島に含まれるバンダ諸島では、1620年代に島の住民を虐殺したり、ジャワ島に奴隷として連行したりして、ナツメグの生産や貿易を独占した。
1623年には、モルッカ諸島の一角であるアンボイナ(アンボン)島では香辛料貿易を巡る争いから、オランダ東インド会社が英国東インド会社の商館を襲撃し、商館員ら全員を虐殺するという事件も起きた。
18世紀に行われたブーガンヴィルによる世界周航も新しい土地の発見を企図していた。探検隊の旗艦はフランス海軍のフリゲート艦だった。18世紀のジェームズ・クックの探検では「原住民と可能な限り友好を結ぶこと」と指示されていたものの、未所有の島などがあれば、英国王の名において領有することを命令されていた。クックが操縦したエンデバー号はもちろん武装していた(途中、座礁しかかった際に船体を軽くするため、砲を投棄した)。19世紀のダーウィンが乗船したビーグル号も大砲を備えた英海軍の船だった。
それまで交流のない土地を目指し、互いに知らない民族同士が出会う場合、自衛の武器が必要になる場合もある。現在のように地球上のほぼすべての土地がどこかの国家や地域に属し、標準的な外交の手続きをとって平和裏に接触できる時代とは違う。互いに相手を警戒しながらの接触だった。言葉も習慣も違う。相手の意図を読み間違え、誤解による偶発的な戦闘もしばしば起こった。
それにしても、自らを優れた文明だと自認した当時の欧州各国が、アジアやアフリカ、南米などの「原住民」の土地を一方的に支配するというのは、いかにも身勝手な論理だった。
(第4回に続く)
鈴木淳著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)


