世界一周500年の歴史を振り返れば近現代史の意外な側面が見えてくる――日経ビジネス人文庫『8の都市からよむ「世界一周」の世界史』(鈴木淳著)では日本経済新聞記者が自ら旅しながら歴史をたどります。第2回は死と隣り合わせだった16世紀の過酷な遠征について、本文より抜粋します。

食糧難と闘いながら太平洋渡航

 フェルディナンド・マゼランも含めた大航海時代の冒険者たちが目指したモルッカ諸島だが、実はマゼランはモルッカ諸島には到達していない。その事情は後で語るとして、マゼランの世界一周の航海を簡単に振り返っておきたい。

 マゼランはスペイン王カルロス1世の命令を受け、1519年にスペインを出発した。西に航路をとり、中南米を南下した。当時、海をまたいだ探検ではポルトガルが先行していた。アフリカ大陸の西岸を南下して喜望峰を回り、インド経由でアジアに向かうルートはポルトガルに支配されていた。このため、マゼラン隊は西回りでモルッカに向かうルートの開拓を目指した。

 マゼランたちは食糧難や乗組員の反乱などの困難を乗り越え、南米大陸最南端にある海峡が太平洋につながっていることを発見した。

 1520年11月末にその海峡――のちにマゼラン海峡と呼ばれるようになった――を抜けて太平洋に出ると、いよいよ目的地であったモルッカ諸島を目指した。マゼラン隊が「太平洋」と名付けたように、海自体は大西洋の荒波と比べれば穏やかだった。ただ、補給できる島がない。マゼランと航海を共にし、スペインに帰還したピガフェッタはこんなことを書き残している。「3カ月と20日の間、新鮮な食べ物はなにひとつ口にしなかった。ビスコット(乾パン)を食べていたが、これは粉くずで、いいところはみな虫に食い荒らされていた」(ピガフェッタ『最初の世界周航』長南実訳/岩波文庫/60ページ)。

 船内はネズミの小便の臭いが充満したという。水も黄色く変色したものしかなかった。ネズミを食べただけでなく、おが屑(くず)やマストに貼ってあった牛皮まで口にしたというから、いかに悲惨な航海だったかがわかる。

 しかし、本当に恐ろしかったのは食糧不足そのものよりも壊血病だった。壊血病は15~18世紀の船乗りにとって最も恐ろしい病気だった。現在では重度のビタミンC不足により、血管が薄くなり出血する病気として知られている。無気力の症状も表れ、最終的には死に至る。当時の船には新鮮な野菜などを積むのは難しかったし、太平洋を渡る場合、そもそも補給も難しかった。

16世紀当時、太平洋を船で渡るには想像を絶するような日々を強いられていた(写真はイメージ)(写真:JLV Image Works/stock.adobe.com)
16世紀当時、太平洋を船で渡るには想像を絶するような日々を強いられていた(写真はイメージ)(写真:JLV Image Works/stock.adobe.com)
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 1768年から1771年にニュージーランドやオーストラリア経由で世界一周をした英国のジェームズ・クックはドイツ発祥のキャベツの漬物、ザウアークラウトを船員に与えることで壊血病を予防した。クックは1768年10月4日付の航海誌で「乗組員に固形スープとザウアークラウトを給する」とある(『クック太平洋探検 1 第一回航海(上)』増田義郎訳/岩波文庫/11ページ)。

 クック隊は乗組員の壊血病死者を出さずに出発地に帰還した初めての遠征隊とされている。マゼランの時代には壊血病は原因さえわかっていなかった。ピガフェッタの記録では太平洋横断中に19人の隊員と、奴隷として南米から連れて行った人も死んでしまったという。

270人で出発し帰還したのは18人のみ

 3カ月超の太平洋航海で実際にたどり着いたのは現在のフィリピンだった。マゼランはセブ島のそばにあるマクタン島で地元の部族長ラプラプ(シラプラプ)と交戦し、命を落とす。キリスト教布教で対立したとか、地域の部族長の争いに巻き込まれたとか理由は諸説ある。

 エルカノら残った部下たちが航海を続け、モルッカ諸島に到着し、1522年にスペインに帰還する。だから、厳密にはマゼラン個人が世界一周を成し遂げたわけではないのだが、初の世界一周といえば、一般にマゼランの功績とされている。

(出所)日経ビジネス人文庫『8の都市からよむ「世界一周」の世界史』
(出所)日経ビジネス人文庫『8の都市からよむ「世界一周」の世界史』
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 モルッカ諸島に到着するまでに2年超、帰還まで3年かかった文字通り前人未到のプロジェクトを準備し、実行に移したのは確かにマゼランの能力による所が大きいといえよう。彼の航海に関する知識、技能、統率力がなければ、艦隊はもっと早く瓦解していたかもしれない。

 マゼラン隊による南米マゼラン海峡の発見によって、西回りでもモルッカ諸島に到達できることが実証された。マゼラン隊はモルッカ諸島の島、ティドレの王と親交を結んだ。少なくとも彼らの目線ではティドレ王との関係は良好で、ティドレをたつ時には王は大量の丁子を船に積ませた。それが原因で船が重さに耐えきれず、マゼラン隊はトリニダード号をモルッカ諸島に残し、ビクトリア号のみで帰国することになる。1519年にセビリアを出発した時には5隻から成る艦隊だった。

 こうして、丁子という宝を満載したビクトリア号だが、対立するポルトガルの支配地域を避けるため、ジャワ島を出てからはほぼ無補給でインドやアフリカを抜けている。新鮮な水や食料不足につながり、再び壊血病も広がった。マゼラン隊は270人で出発したが、3年後にスペインに帰還したのはわずか18人だった。先に書いた通り、マゼラン自身もマクタン島での戦闘で命を落とした。

 こうした常に死と隣り合わせという過酷な遠征の副産物として人類初の世界一周が記録された。

 マゼラン隊の世界一周によって、「地球が丸い」ということが経験的に確かめられた。地球が球体であるということは紀元前のギリシャ世界ですでに認識されてはいたものの実証はされていなかった。地球は球体で、海を介してひとつにつながっている――。現在のグローバリゼーションにも通じる認識がマゼラン隊の冒険で世界にもたらされた。

(第3回に続く)

日経ビジネス人文庫『 8の都市からよむ「世界一周」の世界史
19世紀の世界一周パックツアーの旅程とは? 渋沢栄一が5回も「洋行」した理由は? 21世紀の世界一周のトレンドは? 国際報道に携わる日経記者が、横浜、香港、ロンドン、ジュネーブまで、キーとなる各都市を自ら旅しながら、「世界一周」500年の歴史をたどります。

鈴木淳著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)