働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『一歩が踏み出せなかった私へ』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている日経ウーマンの記事から一部を抜粋してお届けします)

憧れの職業に就けない? ショックから模索した自分の道

 最近は「自分に自信が持てない」という方が多いようで、私もよくアドバイスを求められたりします。それは私自身が「若い頃から自己否定と自己肯定を繰り返し、本当に自分に自信を持てるようになったのは、ほんの数年前」と、いろいろな場でお話ししているからでしょう。

 実際、10代の頃はコンプレックスの塊で、自分の殻に閉じこもっていた時期があります。私は男の体に生まれながら、心は女だったので、さまざまな葛藤を抱えていたのです。今でこそジェンダーレスや多様性を認める風潮が見られますが、私が育った時代は理解されるはずもなく、ずっと生きづらさを感じてきました。小学校時代は「オカマ」と言われるのが嫌で、人を避けていたことも。いじめを回避するにはどうしたらいいか、人からバカにされないように生きるにはどうすべきか、そんなことばかり考えていました。

美容家のIKKOさん
美容家のIKKOさん
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 私は4人きょうだいで、姉2人と妹がいます。私が生まれたとき、父は待望の男の子の誕生をとても喜んだそうです。でも「男の子らしく育ってほしい」と望む父に反発し続けた私。一族で私が唯一の男の子だったこともあり、親や親戚に「将来はいい学校に入って、いい会社に入るように」と言われるのも苦痛でした。私からすれば、背広にネクタイを締めて会社に勤めるような人生なんて、まっぴらご免。大人になったら、素敵なドレスや着物を着たいと夢見ていたのですから。

 それで子どもの浅知恵ながら、勉強さえしなければ、親たちが望むレールに乗らずに済むと考えました。すると当然、学校では授業についていけなくなり、落ちこぼれに。周囲からは「お姉さんたちはあんなに優秀なのにね」などと言われるようになり、ますます自信を失っていったのです。

 幼い頃に私がなりたかったのは、飛行機の客室乗務員でした。当時の人気テレビドラマ『アテンションプリーズ』を見て、日本航空の制服と制帽に憧れていたのです。ところが、あるとき姉に「男の子は客室乗務員になれないのよ」と言われ……。そのときのショックといったら! それから、自分が生きる道を模索するようになりました。

アルバイトで世の中を学んだ少年時代

 私が生まれ育ったのは福岡県田川郡の、かつては炭鉱で栄えた町です。炭鉱の閉山に伴い、町の活気はなくなる一方。私の両親も時代の波に翻弄され、苦労していた姿が目に焼き付いています。父はパンの卸売業をしていましたが、大手製パン会社の進出で廃業を余儀なくされたため、電気料金の集金の仕事などを掛け持ちして働いていました。母は東京の有名な美容室で腕を磨き、結婚後は地元に帰って美容室を営んでいましたが、徐々に先細りに。母が培ってきた技術は、時代遅れになっていたのです。

 わが家の子どもたちは、アルバイトをしてお小遣いにするのが決まりでした。両親は子どもにお金のありがたみを分からせようとしたのでしょう。私も小学3年から中学3年まで、ヤクルトの配達と集金のアルバイトをしていました。雨の日に濡れたカッパを着て集金に行くと、「汚い! 裏に回って」と怒鳴られたり、冷たくあしらわれたりすることもしばしば。

 とはいえ、いろいろな家庭の様子を見られたことは大きな学びになりました。例えば、長屋の狭い家でも、掃除が行き届いている家には清浄な空気が流れていると感じたこともそのひとつ。のちに、「気」の流れが滞らない生活空間を重視するきっかけにもなりました。

いつかみんなを見返したい 向上心が芽生えた

 世の中には、今でいう“マウンティング”というものがあると知ったのもその頃。時代的な背景もありますが、「お金持ちか貧乏か」「頭がいいか悪いか」「一流か二流か」といったものさしで判断され、扱いが変わるさまを見たからです。

 そんな体験が、私の負けじ魂に火をつけたようです。いつかみんなを見返してやりたいという思いから、高みを目指す向上心が芽生えました。その後、どんなにつらいことがあっても耐え忍び、厳しいハードルを乗り越えてこられたのは、幼い頃に逆境をバネとしたハングリー精神が育まれたおかげかもしれません。

 私が美容師になろうと思ったのは、母の仕事ぶりを間近で見てきたことはもちろん、少しずつ増え始めた男性美容師の中性的な雰囲気を見て、私にもできそうな気がしたから。母の美容室が近所に新しくできた店に押されていくのが悔しくて、「絶対に一流の美容師になる!」と心に誓いました

地獄のような修業時代が始まった

 高校時代は隣町にある、カット技術に秀でた男性美容師の美容室でアルバイトをする日々。高校卒業後は北九州の美容学校で1年間学び、横浜元町の高級美容室「髪結處(かみゆいどころ)サワイイ」に就職したのが19歳のときです。ここから地獄のような修業時代が始まりました。指導係は、フロアマネージャーをしていた澤飯公子(さわいい・きみこ)さんです。最初はタオルの干し方から掃除の仕方、住み込みの寮でも立ち居振る舞いのすべてにダメ出しをされる日々。自分のすべてを否定されたようで、落ち込みました。

 サワイイでは、今までの自分の常識が一気に覆され、やり方をゼロから仕切り直す必要に迫られました。当時の私は、それに戸惑うばかり。しかし、後に自分も独立して、ようやくその意味が分かりました。働く場が変わると、そこにはそれぞれの常識ややり方がある。現場によって、柔軟に、臨機応変に対応していくことで自分の仕事ぶりが認められるのです。

 サワイイ時代は寝る間も惜しんで練習に励みましたが、なかなか認められず、じくじたる思いで唇を噛むことも。そんな私を見て、公子さんから「あなたは意味が分からずにやっているから、どれだけ練習してもダメなの。頑張って練習している自分に満足しているだけ。まずは、人が求めていることに対応できるようにしなさい」と、鋭い指摘が。

 考えてみると、私は幼い頃に人間関係を拒絶してきたため、人の思いや感情が分からないまま育ってきたところがあります。お客さまや先輩たちが求めているものは何かと考えることなく、違う方向を向いて懸命に努力していたようです。何はともあれ、叱責を受けては自分のやり方を見直し、少しずつ成長していったことは、間違いありません。

厳しかった先輩に、50代を迎えて掛けられた言葉に涙

 厳しく指導してくれた澤飯公子さんは、私にとって人生の恩師です。私がテレビに出るようになってからも「有名と一流は違う。あなたは有名になったけれど、まだ一流とはいえない」という辛口批評は続きました。でも、50代になってお会いしたとき、「IKKOはすばらしい努力をして、もう私を超えたね。今はあなたの活躍する姿を見るのが私の生きがいよ」と言ってもらい、うれし涙が止まりませんでした。

 結局、サワイイには8年間、27歳まで勤めました。「若いときの苦労は買ってでもせよ」といいますが、流した涙の分だけ自分の宝となる「引き出し」が増えていくもの。そのときは苦しくても、後になれば「あの経験があったからこそ、今の自分がいる」と思えることが多々ありました。これは私から、今頑張っている次世代の若い方たちにも伝えたいことです。

取材・文/浅野祐子 写真/美容家IKKOマネージメント・オフィス提供

日経WOMAN2024年11月号の記事を再構成]

(1)自己否定と自己肯定…2つを繰り返した日々越え得たもの IKKO ←今回はココ
(2)39歳でパニック障害に…亡き父への後悔と今も守る教え IKKO
(3)50代は喪失感に慣れる訓練期間、傷を乗り越え強くなる IKKO

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)