働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『一歩が踏み出せなかった私へ』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている日経ウーマンの記事から一部を抜粋してお届けします)

トップアーティストの事務所へ移籍 高まる超一流への憧れ

 27歳のとき、8年間勤めた横浜の美容室「髪結處(かみゆいどころ)サワイイ」を辞めた私は、トップヘアアーティスト・伊藤五郎さんの事務所「アトリエGORO」に所属しました。美容師からヘアメイクアーティストに転向したのは、美容師の域を超え、手がけた仕事がもっと多くの人の目に留まる世界を目指したためです。といっても、辞めてすぐに採用されたわけではなく、オーディションを受けて4カ月後にお声がかかるまでは、落ち着かない毎日でした。

 「アトリエGORO」の事務所は、東京の表参道にありました。表参道や青山界隈は、おしゃれな人々が行き交う町。DCブランドのショップやモデル事務所も数多くあり、ファッションやメイクのレベルの高さに驚かされました。事務所の仕事でファッションショーのヘアメイクに携わるようになってからは、世界的なスーパーモデルをはじめ、各界で超一流と称される人たちを見て刺激を受ける日々。「私も超一流の人間になりたい!」と強く思い、誰にも負けない実力をつけようと、必死で腕を磨きました。

美容家でタレントのIKKOさん
美容家でタレントのIKKOさん
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 転機となったのは、雑誌『美しいキモノ』(ハースト婦人画報社)などで、和装のヘアメイクを担当したことです。人にはまねのできない技を駆使した結果、多くの編集者や女優の方々から支持をいただくことに。その後、「IKKOの女優メイク」として世間にも広く知られるようになりました。

 そして30歳のときに独立し、「アトリエ I KKO」を設立。自分のスタッフを抱える経営者になりました。しかし、このときも順調な滑り出しだったとはいえません。大きな事務所の後ろ盾もなくなり、新たな仕事を開拓しようにも、「何者?」と疑わしい目で見られるような扱い。独立前に関わっていた仕事先からも、過去の実績に関係なく「同じ金額は払えない」と足元を見られることもありました。そうなると俄然、元来の負けじ魂に火がつきます。ひたすら勉強と工夫を重ね、完璧以上の仕事をしようと努力しました。

完全無比を目指してパニック障害に お守りは主治医のメモ

 私は基本的に真面目で、仕事で手を抜くことができない性格。今でも周囲のスタッフに「そこまで頑張らなくても! もう少し自分の体のことを考えてください」といさめられることも。若い頃の私は、完全無比の仕事を目指すあまり、自分の体が悲鳴を上げていることにも気がつきませんでした。

 体は正直です。心身ともに限界を超えていた状態がパンクして、39歳のときにパニック障害を発症しました。最初は後頭部に痛みを覚え、血圧も高かったため、1週間ほど入院することに。しかし、本当に大変だったのは、退院後です。呼吸困難やめまいの発作が突然起こるため、仕事中も常に不安を抱えていました。

 このときお守りのように持っていたのは、主治医の先生がくれた「大丈夫、大丈夫」と書かれたメモ。自分の心を落ち着かせるために「大丈夫、大丈夫」と、おまじないのように唱えていました。今も不安を感じたときは、この言葉を自分に言い聞かせています。

ブレイク後に新たな試練が…

 40代になってから、テレビ出演が増えるようになりました。番組で取り上げられた「IKKOの幸せメイク」が視聴者に人気となり、密着取材の番組などで知名度が一気に上がったのです。そして、45歳のときに『おネエ★ MANS』(日本テレビ)に出演してから、人生の流れが大きく変わりました。公の場に女性のいで立ちで堂々と出られるようになり、タレントとしての活動の場も広がりました。2007年の新語・流行語大賞にノミネートされた「どんだけ~」でブレイクしてからは、さらに多忙な身に。スケジュールの調整も大変になったため、マネージメント業務を外部の事務所に委託することにしました。

 しかし、そこからまた試練の日々が始まります。事務所の社長は、これまで何人もの有名アーティストをプロデュースしてきた辣腕経営者。「取ってきた仕事は文句をいわずにやれ!」と、容赦がありません。寝る暇もないほどのスケジュールに息も絶え絶えでしたが、必死にその日の仕事をこなしました。

「今からでもやり直せるよね。昔の私に戻れるよね」

 社長のおかげで、海外での活動のほか、さまざまなジャンルの仕事ができたことは確かです。ファッションショーのモデルを務めたり、ファッション誌のグラビアに登場したり。自分の美しさに磨きをかけて「美のカリスマ」といわれる喜びも味わいました。しかし、その頃の私は自分のことしか考えないエゴイスティックな生き方をしていたように思います。スタッフに対して、「それはあなたたちがやるべき仕事。すべての責任は、あなたたちにある」と割り切っていましたから……。

 そして、そんな自分でいることは1年と持ちませんでした。「こんな生き方をしていていいのだろうか?」と常に葛藤する自分がいて、心のどこかに不安を感じていたのです。周りからチヤホヤされる状況の中で、最高級のブランド品を身に着けて自分を大きく見せようとしていましたが、本当は、自分に自信がなかったのでしょう。そんなとき、弟子たちから「今の先生は、昔と違う。先生らしくない」と指摘されたのです。ハッとしました。華やかな世界に身を置く高揚感が勝り、自己本位な生き方をしていたと気づいたとき、「今からでもやり直せるよね。昔の私に戻れるよね」と、みんなに聞いたことを覚えています。

 間違いに気づけたのは、亡き父から教わった「人として生きるために大事なこと」が私の中にあったからだと思います。その1つが「目に見える成功だけが成功ではない。人生における真の成功とは、人の心にどれだけの感動を残したかどうかで決まる」という言葉。その真意が分かったのは、父の葬儀のときです。参列した多くの人が泣きながら、父にどれだけよくしてもらったかと感謝の思いを述べてくれて、私の知らない父を見た思いがしました。父は生真面目で要領が悪く、損をしてばかりの人生でしたが、人を大事にしてみんなに手を差し伸べ、こんなにも多くの人に慕われていた。これこそが「真の成功者」といえるのだなと悟りました。

父との確執、気づけなかった本当の思い

 実は、私と父の関係は良好とはいえませんでした。幼い頃から父の不器用な生き方に歯がゆさを感じ、また女性として生きる私を最期まで認めてもらえなかったことで、確執もありました。しかし父が亡くなったあと、私の記事をスクラップしたファイルが見つかり、内心では応援してくれていたことを知ったのです。病院の看護師さんに「IKKOは俺の息子なんだ」と自慢していたと聞き、父の思いに寄り添えなかった自分を責めました。

 父が亡くなったのは、事務所に所属してまもなくの頃。仕事に追われて自分を見失っていた私が、立ち直るきっかけを与えてくれたのは亡き父の導きによるものだと思えてなりません。以来、私は人生における岐路に立ったとき、父の言葉を思い返しては、人として天に恥じない生き方とは何かを探るようになりました。

取材・文/浅野祐子 写真/美容家IKKOマネージメント・オフィス提供

日経WOMAN2024年12月号の記事を再構成]

(1)自己否定と自己肯定…2つを繰り返した日々越え得たもの IKKO
(2)39歳でパニック障害に…亡き父への後悔と今も守る教え IKKO ←今回はココ
(3)50代は喪失感に慣れる訓練期間、傷を乗り越え強くなる IKKO

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)