働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『一歩が踏み出せなかった私へ』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は、現在放送中のNHK連続テレビ小説『あんぱん』の脚本を手掛ける中園ミホさん。第1回は、脚本家になる前の「自分は何者なのか」と苦悩し続けた日々をお届けします。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている日経ウーマンの記事から一部を抜粋してお届けします)
脚本家
東京生まれ。日本大学芸術学部卒業後、広告代理店勤務、コピーライター、占師の職業を経て、1988年に脚本家としてデビュー。執筆作に『For you』『Age,35 恋しくて』『やまとなでしこ』『anego』『花子とアン』『西郷どん』『七人の秘書』など。2007年に『ハケンの品格』が放送文化基金賞と橋田賞を、13年には『はつ恋』『Doctor-X 外科医・大門未知子』で向田邦子賞と橋田賞を受賞。19年より、公式占いサイト「中園ミホ 解禁 女の絶対運命」を開始。
「卒論の代わりに脚本を書きなさい」
学生時代、飲んだくれてばかりで卒論が進まない私に、ゼミの先生が言いました。そこで、その時点で人生最大の事件だった母のお葬式を舞台に脚本を書きました。すると、それが意外にも高く評価され、学内の賞をいただきました。これが、私にとって人生初の“脚本”。でも、当時はゆくゆく脚本家として生きていくことになろうとは、つゆほどにも思っていませんでした。
卒業後にコネで入社した広告会社はとても忙しく、ほかの社員は深夜残業も当たり前。でも、ダメOLの私だけは毎日定時退社でした。そんな中、同僚から「シナリオ学校に代理出席して、ノートをとってくれないか」と頼まれました。男性社員の代わりに行ったので、替え玉だとすぐにバレましたが、ここでも先生に言われます。「せっかくだから、脚本を1本書きなさい」。まあ、どうせ暇だから……と書いてみたら、これがまた褒められたのです。
不思議と脚本との関わりがありました。今思えば、神様が怠け者の私に「書け」と言ってくれていたような気もしますが、当時の私には創作意欲も脚本家への興味もありませんでした。シナリオ学校も、授業後の飲み会目当てで通っていたくらいです。
会社を辞めた後も彼らとの交流は続きました。そんなある日、皆で渋谷を歩いていると、50mほど先に男性の姿が見えました。人混みの中で、その人だけが光って見える。その瞬間、私は彼に恋をしました。
恋しい彼の脚本を書写し続ける
その人は当時40代で長髪にハナエモリのコートを着て、変わった風貌をしていました。聞けば彼は脚本家で、私が一緒にいた仲間とも知り合いと判明! その日は流れに任せて、皆で飲むことになりました。
そして翌日。恋に落ちた私は、その脚本家が仕事で缶詰めになっているホテルのロビーへ。夕方、部屋から出てきた彼はものすごく驚いていました。翌日も、その翌日も、私はロビーで待ち伏せ。完全なストーカーです(笑)。夏になる頃、とうとう、「明日もいたら通報するよ」と宣告されました。
見事に失恋した私は、渋谷の駅のホームで、電車が通り過ぎるのを何時間も見つめていました。そして気づいたのです。「同じ仕事に就けば、あの脚本家にまた会える!」と。
翌日から国立国会図書館に通い、その脚本家の作品の書写を始めました。「彼の頭の中を知りたい」。その一心で、26歳の有り余る恋のエネルギーを書写にぶつけたのです。おかげで、せりふやト書きの書き方が身に付きました。私の唯一の脚本修業です。
失恋後は毎日、夜になると脚本家が集う飲み屋に入り浸りました。周りの人にごちそうになってばかりの私に、あるとき、売れっ子脚本家の桃井章さんが言いました。
「30歳過ぎたら誰もおごってくれないよ」
そして、刑事ドラマの脚本の下書きを頼まれたのです。さすがにこのときは「試されている」と感じました。ここで逃げたら、私は一生ダメなままかも。自信はないけれどやってみよう──。それから1週間、誰にも会わずに脚本を書きました。
ひどい脚本でした。刑事ドラマなのに、犯人が捕まらない話でしたから。でも、一読した後の桃井さんの言葉に救われました。
「せりふは面白い。人間は書けているよ」
指導してもらいながら手直しした脚本が採用され、ついに脚本家デビュー。脚本家として桃井さんと連名で名前が出たときは感慨深かったです。夏の失恋から3年、私は29歳になっていました。
玉のこしを狙うはずが想定外の妊娠
当時は若い女性の書き手が珍しかったこともあり、すぐにオファーが舞い込むようになりました。でも、仕事はつらかった。書くのは遅いし、勉強不足だし、出してはダメ出しの連続。「こんなつらい仕事、辞めてやる!」と、いつも思っていました。
あるとき、ドラマ『世にも奇妙な物語』のオファーをいただきました。このドラマは脚本家が数人集められ、それぞれが持ち寄った数行のプロットについて皆で意見交換しながら作品に仕上げるという手法を取っていました。毎回参加していましたが、程なくしてプロデューサーに言われました。
「中園さん、1本も書いてきませんね」
……バレたか。君塚良一さん、北川悦吏子さんなどそうそうたる面々が何本も書いてくる中、私は1本も書かず他人の案に意見するだけ。それでも打ち合わせに出ていたのは、終了後の飲み会に行きたいから(笑)。
31歳のとき、同ドラマのスペシャル版の脚本を任されました。それまで何も書かずに言いたいことだけ言っていた私ですから、さすがにある程度のものを書かないと格好がつかない。そうやって自分を追い込みながら書いたのが「幸福の選択」という作品です。評判もよく、初めて「書きたいものが書けた」手応えがありました。
それでもやっぱり、狙うは玉のこしでした。駆け出しだったこともあり、当時のドラマ1本当たりのギャラは10万円程度。何回も書き直しをした私の仕事の“時給”は、ファストフード店のアルバイトの時給以下でした。
連続ドラマは面倒だからと逃げていましたが、「このままでは脚本家として中途半端だ」と諭され、33歳で初めて連ドラの脚本を受けることにしました。
その直後です。妊娠が分かったのは。
最初は産まない選択をしました。相手とは結婚できる状況ではないし、私に子育ては無理だと思っていましたから。
出産は人生最良の選択だった
病院に行くために仕事を休もう。何を口実にしよう。悶々(もんもん)としながら締め切りに追われるうち、食事が喉を通らなくなり、不安定な精神状態になっていきました。そこで「別の方法も考えてみよう」と、初めて「産む」ことをイメージしたら、不思議とご飯がおいしく食べられる。「家族ができる」と思うと、なんだか楽しい気持ちになる。そして決めました。「産もう」と。
「お父さんはプレゼントできないけれど、生まれてくる世界は、絶対に楽しいよ」
おなかの子には、毎日そう話しかけていました。私の幸せは子どもの幸せだと、産院も都内で一番高い、ホテルのような環境のところを選びました。貯金はすっからかんでしたが、幸せホルモンがあふれ出ていたのか、妊娠中は毎日ハッピーでした。
34歳で息子を出産。対面した瞬間、息子から吹き出しが見えた気がしました。
「本当に、人生って楽しいんだろうな?」
大変だ、私はこの子を幸せにしないといけない。そのためには、自分が幸せにならないと──。初めて、人生にギアが入りました。脚本を書くのは、家で子育てをしながらでもできる。「この仕事で生きていこう」。覚悟が決まった瞬間でした。
母乳で育てながら、仕事はフル稼働。未婚の母を選択した時点で疎遠になった親戚も多く、両親は他界していたので頼れる人もいない。打ち合わせ中は息子の面倒をシッターさんに任せ、執筆は夜、息子が寝た後。どう子育てしようかなどと考える暇もなかった。元気で生きていてくれればいい。そう思いながら、毎日をとにかく必死に生きていました。
出産は私の人生の最良の選択でした。見えっ張りの私が素直に周囲にSOSを出せるようになり、仕事にも本気になれた。恋人に「ふてくされた性格を直せ」と言われても直らず、直そうともしなかったのに、子どもを産んだら変わった。息子は私を変えた唯一の男です。
取材・文/松田亜子 イラスト/すぎやましょうこ
(1)『あんぱん』脚本家・中園ミホ 脚本家の前は、占いと競馬で生活
(2)『あんぱん』脚本家・中園ミホ 恋に破れて脚本家を目指す ←今回はココ
日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)


