働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『一歩が踏み出せなかった私へ』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回はビューティ・ライフスタイルデザイナーの藤原美智子さん編の第2回。22歳で独立して10年、順調だった仕事にあぐらをかくことなく、一気に会社を設立しました。それは、責任ある人生を送るという意志の表れでもありました。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている日経ウーマンの記事から一部を抜粋してお届けします)


藤原美智子
ビューティ・ライフスタイルデザイナー
藤原美智子 ふじわらみちこ/に関するプロダクトを扱う「MICHIKO.LIFE」を立ち上げ、ライフスタイルの提案を行う。その後、2022年に42年間のヘアメイクアップアーティストとしての活動に幕を下ろし、1992年に自身が設立したヘアメイクオフィス「ラ・ドンナ」の活動も終了。現在も執筆や講演、SNS等を通じて、美やライフスタイルの提案を続けている。Instagram@michiko.life 写真/神戸健太郎

 33歳の誕生日を迎える少し前、私は広告撮影でハワイにいました。

 疲れてホテルのベッドに倒れ込んだとき、窓の向こうに見えたのが、マウンテンビューのきらめく夜景。天まで届くような光を見たとき、ふと思いました。「私は自分を輝かせてあげているのだろうか」と。

「そうだ、会社をつくろう」

 22歳で独立して10年、仕事は順調でした。雑誌や広告撮影では自分らしい表現ができ、女優の方から指名をいただけるようにもなった。でも、どこかで「このままでいいのだろうか」「自分が望むように生きているのだろうか」という、モヤモヤとした思いを抱えていました。

 考えると、「いつかやろう」「そのときが来たら」と考えていることがいくつもありながら、日々に追われて実現できていなかった。「いつかやろう」を、今やらないことの言い訳にしてもいた。でも、自ら一歩を踏み出さない限り、「いつか」はやって来ない。やりたいと思ったときに行動できる人生にしよう──。ハワイの美しい夜景に、そう決意したのでした。実行する人生こそが、私を輝かせてくれるはず、と。

 「そうだ、会社をつくろう」。33歳の年末、除夜の鐘を聞きながら決心しました。新しい年に、まだやっていないことに挑戦したい。それは、会社をつくること=責任のある人生を送ること、でした。

 それまで、「事務所をつくれば?」と勧められるたびに、「いつかね」と気のない返事をしていました。縛られるのが嫌な私は、家や車をローンで買うことにも、結婚にも興味がなかった。「明日、パリに行こう」と思い立ったらすぐに旅立てるような身軽な生き方をしたいから、会社をつくるのはもっと先の「いつか」にと思っていました。でも、きっと今がそのとき。

 (写真:Monet/stock.adobe.com)
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会社の名前に込めた「すべての女性たちへ」

 一度決めると、会社設立までは早かった! 仕事場は、東京・白金に中古マンションを買い、リフォームすることに。といっても、それまでの根無し草人生で貯金もなかったので、親に頭金の援助を依頼。事務スタッフは、私が所属していた事務所に以前勤めていた女性にお願いしました。彼女は今も、私のマネジャーです。

 34歳でつくった会社の名前は「LA DONNA(ラ・ドンナ)」。イタリア語で「ザ・ウーマン」を意味する言葉に、「すべての女性たちへ」という思いを込めました。

 自分の会社という場を得た私は、やりたくてもできなかったことに片っ端から挑戦しました。その一つが、一般の方へのメイクアップアドバイス。当時、私のメイクページが女性誌で反響を呼んでいたこともあり、「藤原さんにメイクをしてもらいたい」というお問い合わせを多くいただいていました。そこで、予約制でおひとりずつ、実際にメイクをしながらアドバイスをしたり、ポーチの中身を見直したり。メイクへの関心が高まっていた時代背景や、私のメイク教室が雑誌に取材されたこともあり、気づけば予約は2年先まで埋まっていました。

34歳でつくった会社の名前は「LA DONNA(ラ・ドンナ)」。イタリア語で「ザ・ウーマン」を意味する
34歳でつくった会社の名前は「LA DONNA(ラ・ドンナ)」。イタリア語で「ザ・ウーマン」を意味する
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 また、「こんなものがあったら」と考えていたものも商品化。当時、プロ用のメイクブラシにはなかった柄の短い、使いやすいブラシを作ったり。髪をまとめるバレッタも、真後ろから見たときだけかわいいのが不満で、横から見ても美しく見える形にこだわって作ったり。

 そうこうしているうちに、著書出版のオファーをいただくようになり、雑誌や新聞の連載の仕事、テレビ出演の依頼も増えていきました。

期待をほんの少しだけ上回る仕事をする

 「メイクは手数を少なく」がモットーでした。無駄な動きがあると透明感がなくなるので、余分な力を入れず、肌に軽く触れるような感覚でメイクするのが私流となりました。

 撮影の仕事で大事にしていたことは、集中の仕方。その日のモデルと衣装、撮影内容を把握した後、どれだけ集中してヘアメイクをイメージできるかが、プロとしての力量の差になりますから。

 そして、求められるヘアメイクより、「少しだけ上を目指す」ように意識して仕事をしました。期待をほんのちょっとだけ、良い意味で裏切るようなクオリティーに仕上げるということです。大事なのは、「ちょっと」を大幅に超えないこと。どんなに自分では良いと思っても、それは一人よがりかもしれないし、人は想定を超える提案には拒否反応を示しやすいものですから。仕事は人と人とのつながりで成り立つもの。お互いが納得して同じ方向を向けるように、相手の心理的なことも考えながら仕事をするのは大事なことだと思います。

40代を目前に体が悲鳴を上げた

 36歳を過ぎると、自分の限界を日に日に超えられている実感がありました。その前まで四苦八苦していた仕事を今は簡単にこなせる。まだいける、もっとできると、自分から仕事をどんどん増やしていきました。

 最初の仕事場はすぐ手狭になり、代官山に引っ越し。その頃には私ひとりでは回らなくなり、アシスタントも雇っていました。私が年長者で、全体を俯瞰(ふかん)する立場になる現場が増えたこと、アシスタントを育てる立場になったことなど、キャリアを積むなかでの自分の立ち位置や環境の変化に戸惑いもありましたが、どんなに多忙でも、仕事はただただ楽しかった。

 突然、体が悲鳴を上げたのは40代を目前にした頃。休みはほぼ元日の午前中のみという働きづめの日々で、体はこり固まっていました。モデルにメイクをするときの、体を左にねじって曲げる姿勢で体がゆがみ、朝起きた瞬間から疲れ切っている状態。体のつらさに比例するように、気持ちの余裕もなくなっていき、「私ばかりが大変」という被害妄想を持つようになってしまいました。

日々、メンテナンスをしないと体は改善しない

 自分の体を自分ではどうにもできず、2年ほど、整体やマッサージなどいろいろなことを試しました。でも、仕事の合間を縫って週に1回通うだけでは、マイナスの状態の体をゼロには戻せても、こらない体、ゆがまない体にはならなかった。

 日々、体のメンテナンスをしなければ、プラスにはなっていかない。そのことにやっと気づいた私は、自宅でストレッチを始めました。やると決めたらとことんやる性格。硬い上半身を必死で前に曲げようとしていたら、3時間経過……ということもありました。続けていると、体がふっと楽になる瞬間がうれしくて、没頭してしまうんです。ストレッチは今も私の日課です。

こらない体、ゆがまない体のために、自宅でストレッチを始めた
こらない体、ゆがまない体のために、自宅でストレッチを始めた
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 ストレッチで体が楽になってくると、気持ちも軽くなりました。そこで初めて、私は心と体がつながっていることを知ったのでした。

 46歳のとき、生活を朝型に変えました。きっかけは原稿書き。夜の執筆は進まない上に、書いた原稿は翌朝読み返すと使えないものが多くて朝、書き直す。そんな効率の悪さを反省し、生活を変えようと思い立ったのです。「深夜2時前に寝るなんて罪!」とばかりに夜遊びも楽しんでいた生活が一変し、24時までに寝る生活に。眠れなくてもベッドに入る生活を10日続けると、朝型が習慣になりました。原稿書きや家事も、朝だと集中できるからはかどり、やらされた感もない。朝時間は想像以上に充実した生活をもたらしてくれました。

取材・文/松田亜子 イラスト/すぎやましょうこ

日経WOMAN2018年7月号の記事を再構成]
働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)