働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『一歩が踏み出せなかった私へ』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は写真家・映画監督の蜷川実花さん編の第1回。「演出家・蜷川幸雄の娘」ではなく一個人として認識してほしいという思いから、自己を表現する写真にのめり込みます。大学時代には新人写真家の登竜門である2つの賞を獲得。企業への就職も一度は考えたものの、写真の道で仕事をしていこうと決意します。(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている日経ウーマンの記事から一部を抜粋してお届けします)
写真家・映画監督
Mika Ninagawa ●写真家、映画監督、現代美術家。写真を中心として、映画、映像、空間インスタレーションも多く手がける。木村伊兵衛写真賞ほか数々受賞。2010年ニューヨークのRizzoliから写真集を出版。また、『ヘルタースケルター』(’12年)、『Diner ダイナー』(’19年)をはじめ長編映画を5作、Netflixオリジナルドラマ『FOLLOWERS』(’20年)を監督。個展「蜷川実花展with EiM:彼岸の光、此岸の影」(京都市京セラ美術館、’25年1月-3月)は、25万人を動員。最新の写真集に『EternityinaMomentvol.1‒3』(Akio Nagasawa Publishing & Case Publishing、2024年)がある。https://mikaninagawa.com
2020年2月から、Netflixでのドラマ初監督作品『FOLLOWERS』が全世界で配信されています。物語の軸となるのは、成功したアラフォーの写真家と、まだ何者にもなれていない20代の女優志望の、2人の女性。このドラマは私から企画を持ち込みました。地位や収入が上がっても、仕事や人生の悩みは尽きないもの。私もいまだにそうです。なぜ、あの人にできて自分にはできないのか、なぜ、世界は私を見つけてくれないのか、とネガティブになることも。でも、ごはんがおいしかったり、天気がよかったりするとうれしいですよね。女性としての生きづらさに悩む作品は多いけれど、現実の大人の女性は、悩みながらも女性であることをもっと楽しんでいる。そういう軽やかに生きている女性たちを描きたかったんです。
私自身は、いわゆるジェンダー・ギャップを感じたことがあまりありません。それは、演出家の父・蜷川幸雄の考えによるところが大きいと思います。私は5歳頃まで、主に父に育てられました。当時は女優である母のほうが収入が高く、家事・育児は父の担当でした。我が家は「稼げるほうが稼ぐ」という方針。そんななかで私も、「女性だから」という理由で理不尽な思いをすることなく育ちました。

「自分の表現を身に付けたい」 中学で撮り始めた写真
父は常に「経済的、精神的に自立しろ」と言っていました。男を通してしか社会とつながれない女になるな、皆が右に行っても、自分は左だと思ったら左に行きなさい、と。彼なりのかっこいい女性像を私に伝えていたのでしょう。1960年代のアバンギャルドなカルチャーが好きなのも父の影響。寺山修司や横尾忠則さんの世界観、父の書斎にあった地獄絵図のように、死を連想させるものにも惹かれていました。
よく劇場の稽古場で遊んでいた私は、5歳ですでに、演じる人になりたいと考えていました。中学1年で演劇部に入部しましたが、すぐにやめてしまった。代わりに、映画や舞台、展覧会を見に行くようになりました。高校生になると、友達と原宿や渋谷に行くけれど、母から借りて持ち歩いていたヴィトンのバッグには、太宰治や藤原新也さんの本が入っていて。ミーハーとサブカル、両方を行き来していました。
両親が有名であることは誇らしい一方で、どこに行っても“蜷川幸雄の娘”と言われるうちに、“蜷川実花”という一個人として認識してほしい、そのためには、自分の表現を身に付けなくてはと考えるように。そんななかで手にしたのが、コンパクトカメラです。写真は中学から撮り始めました。それは、シャッターを押せば感じたことがすぐに表現できる、手軽で特別な遊びでした。高校1年のときに一眼レフカメラを買うと、モノクロ写真を撮り始めました。
やりたくないことは一切やらない性格で、学校の成績はひどかったです。でも、表現力を身に付けるほうが大事だと、気にしていなかった。本当は、そのためにも勉強は必要なのですが。今、自分の子どもがテストで悪い点を取ると、「人生で苦手なことをやらないといけないときの訓練だと思って、勉強しなさい」と言っています。これ、父の受け売りです。(笑)
勉強はやりたいことではないから、できなくても傷つかない。そんなふうに常に逃げ道を用意していた生き方が変わったのが、高校3年のとき。両親とは違う世界で表現をしようと美大進学を決め、美術予備校に通い始めてからです。
予備校で描いた絵は、クラス全員の前で順位をつけられました。始めたばかりの私はたびたび最下位に。全力で描いた絵が評価されないことがショックでしたね。でも、自分で決めた道だから言い訳ができない。朝は誰よりも早く教室に入っていい席を取り、夜は最後に帰るようになりました。何かを表現したいともがき、ずっとよどんでいた内なる情熱が、一気にあふれ出たようでした。やると決めたら全力。予備校での成績はトップクラスでした。意外と真面目なんです。
東京芸術大学を目指していましたが、2浪した後、多摩美術大学へ。ちゃんと就職できるよう、グラフィックデザインを専攻しましたが、大学にはほとんど行かず、写真ばかり撮る日々。独学で撮影しては、公募展に応募していました。それは、芸大生に負けたくない、彼らを超えたいと思っていたから。そんなふうに、仮想敵をつくって闘うのは、今も変わりません。
人生一度きりなら、やりたいことに懸けてみたい
当時の被写体は、5歳下の妹。彼女の移ろいゆく美しさをモノクロ写真にとどめたかった。それから、セルフポートレートを撮るようになりました。友達や恋人、生活というリアルより、現実と非現実との間の雰囲気を切り取りたかった。あの頃から、手に触れそうで触れられない世界に惹かれていたように思います。
大学2年のとき賞を取り、雑誌『アサヒカメラ』に写真が掲載されたのをきっかけに、作品をまとめたブックを作り、あらゆる出版社の編集部に売り込みを始めました。父のコネクションには一切頼りたくなかったので、地道に電話をかけて。会ってくれる方は少なかったけれど、それでも作品を見てくださった方から小さなポートレートの撮影依頼が来て、その写真が良かったからと、また次の仕事を頼まれて……というふうに、少しずつ次につながっていきました。といっても、仕事の依頼は1カ月に1回くらいでしたし、ノーギャラだったり、ギャラが図書券ということもありました。
その頃、「ひとつぼ展」(現・1_WALL展)に毎回応募していました。入選したときはうれしかったですね。“蜷川幸雄の娘”という矯正ギプスが外れて、蜷川実花として初めて認められた気がして。でもその後、入選して評価された作品をなぞるような写真を撮り続けている自分に気づくと、焦りました。
当時、私は家賃3万5000円、エアコンなしのアパートにひとりで暮らしていました。夏のある日、暑さでフラフラになりながら外に出た瞬間、飛び込んできたのは、強烈な光と濃い影、空の青さ、花の色。そのときふと、「カラーで撮ってみよう」と思ったのです。もともと、ファッションもカラフルなものが好き。「写真はアートだ」なんて意識せず、肩の力を抜いて、「あの人かっこいいな」と思うように、日々の感情の延長で撮影してみよう――。そうして撮ったカラーのセルフポートレートで、大学4年のとき、ひとつぼ展でグランプリを、「キヤノン 写真新世紀」で優秀賞を受賞。「こんなに激しい色は初めて」と評価していただきましたが、その色も花のモチーフも、子どもの頃から描いていた絵と変わらないものでした。
若手写真家の2大登竜門であった2つの賞を取って写真の道へ、と思われるかもしれませんが、実は私、ここで就職活動を始めるんです。写真で食べていける自信がなかったし、「自立する」という父の教えもあり、ずっと仕事をし続けようと思っていたので。でも、ある会社説明会に行ったとき、やっぱり無理だと思ってしまった。人生一度きりなら、やりたいことに懸けてみたい――。そして、写真の道に進むことを決めたのでした。
取材・文/松田亜子 イラスト/すぎやましょうこ
日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)

