働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は村木厚子さんの回をお届けします。
(本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)

 30代は、男女雇用機会均等法の策定や男女共同参画社会の拡大など、女性の労働問題に多く携わってきました。忘れられない仕事の一つに、「非伝統的分野への女性労働者の進出に伴うコミュニケーションギャップに関する研究会」があります。これはいわゆる、〝セクシュアルハラスメント(セクハラ)〞のことです。

 80年代、欧米では法制度化され、日本企業の海外支社でも問題となっていたセクハラは、国内ではまだきちんと対応すべきこととは思われていませんでした。しかし、近く日本でも法律で扱うことになると感じ、研究会を作ったのですが、初めての案件で活動予算がなかなか取れない。「役所の企画書に『セクハラ』なんていう品のない言葉が出てくるのはダメだ」と言われ、必死で考えて前述のように書き換えました。なんとか小さな予算がつき、後に、均等法の中でセクハラに関する項目ができたときは感慨深かったです。

 30代は仕事への責任が生まれ、主体的に働けるようになったと思います。でも、いつも「いっぱい、いっぱい」。係員、係長、課長補佐、課長、企画官と役職は上がっていくのに、常に自分の実力が足りていないと感じていました。係長になったときは、「今なら立派な係員になれるのに」と思い、課長になったときは「今なら立派な課長補佐になれるのに」と。それでも、「少しずつ進歩している」と夫に話すと、「いつも追いついていないってこと?」と一言(笑)。それでいいのだと今は思います。担当する仕事や役職は、実力がついてから担うべきと思っていましたが、その仕事をしたから実力がつくものなのです。

 29歳で長女を、35歳で次女を出産しました。働き続けることが目標でしたので、子どもを預けて働くことは覚悟していましたが、当時はまだ育児休業制度のない時代。職場の数少ない女性の先輩が保育所や保育ママの見つけ方をアドバイスしてくれ、ずいぶん助けられました。

 長女の出産後、6週間の産後休暇(当時)後の職場復帰に向けて、22時まで預かってくれる保育ママさんをお願いしました。素晴らしい方で、娘をその家の末っ子のようにかわいがってくれましたし、私にとっては育児の先輩として心強い存在でした。丁寧につけてくださった育児日記は宝物。今も、お手紙のやりとりが続いています。

 長女が2歳のとき、島根県の労働基準局へ監督課長として異動になりました。31歳で初の管理職です。当時、労働省では2年目と30歳前後で必ず地方勤務があるので、同期の夫も近く地方勤務になるはず。私は、島根へ〝子連れ赴任〞しました。

(写真/健二 中村 /stock.adobe.com)
(写真/健二 中村 /stock.adobe.com)

 珍しい女性の管理職で、しかも小さな子どもがいる。私自身も、また、受け入れる側も戸惑いがありましたが、職員の皆さんは温かく、保育所探しも手伝ってくれました。「子どもを連れておいでよ」と言ってくださるので、飲み会にも親子で参加。娘がビアガーデンの提灯を見て、「ママの会社だ」と言ったこともあるくらいです(笑)。

 仕事と子育ての両立は、東京に戻ってからのほうが大変でした。夫が長野に単身赴任中で、私が所属していた均等法を担当する部署は非常に忙しく、残業も多い。深夜0時に職場を出て、保育ママさんの所へ娘を迎えにいくということも、しょっちゅうでした。スイスへ1カ月間の出張が決まったときは、長期で預かってくれる所を探し、その方に初めてお会いしたのが出張に出発する当日、ということも。むちゃしていたなと思います。

 なんとかやっていましたが、長女が5歳のときに、小児てんかんを発症。それからは葛藤が生まれました。通院のために仕事を休む。寝入りばなの発作に備え、22時までに帰宅する日々。部下は全員、独身男性。忙しい部署で皆、毎晩遅くまで仕事をしている中、ひとり早く帰るのは、肩身が狭く悩みました。でも、一番大切なのは子ども。頑張ってだめなら仕事を辞めよう、辞めればいいだけなんて簡単なこと。そう考えると一気に楽になって、部下に頼りながら仕事ができるようになりました。

 案外、気の持ちようなんです。子どもの病気で欠勤するとき、自分の風邪で休むときの何倍も気を使う女性は多いですが、本当は自分の病欠程度の申し訳なさでいいはず。実際、当時の私の欠勤率は男性とほとんど変わらなかったですから。

 「家事は早く帰ったほうがする」と夫婦で決めていましたが、夫に頼る日も多かったです。夫からは時々、「仕事にのめり込みすぎ」と叱られました。なんとか仕事と子育てを両立するために、「時間をお金で買って」いました。毎日、娘のお迎えはタクシー。娘二人の保育料とタクシー代で、一番多かった年で300万円以上の費用がかかっていました。私のお給料はボーナスが少し残るくらい。これは、必要経費だと割り切っていました。

 役職が上がるにつれ拘束時間も長くなり、育児との両立は厳しさを増していきます。それでも、自分は子どもがいるから、あるいは子どもを持ちたいからといって、残業が少ない楽な職場を選ぶことを、私はおすすめしません。やりたい、面白いと思える仕事だからこそ頑張れるし、力も発揮できる。職場もそんな人材は手放したくないから、働く環境を考えてくれる。やる気を発揮できる環境のほうが、仕事と育児の両立をする価値があると思えて、力が湧くものです。

 子育てをしながら仕事を続けてよかったことの一つは、仕事がストレス解消法になっていたこと。夫も私も、育児中は仕事を忘れ、仕事中は育児のことを忘れられた。「忘れられる」ことは一番の気分転換になるんですよね。もう一つは、職場での私の評判は上がった気がすること。特に、次女が生まれて以降、そう感じます。

 当時住んでいた公務員宿舎の小さな花壇に、私は毎年、チューリップを植えていました。あるとき、長女が「赤と黄色のお花が咲いたよ」と、花の色を教えてくれました。次女は「お花が3つ咲いたよ」と、数を教えてくれたんです。同じ親から生まれてきたのに、姉妹でも見ているところが全く違う。感激しました。つまり、人は違っていて当たり前。それぞれに長所がある。そう気付いてから、部下を大きな声で怒ることはなくなりました。30代半ばぐらいまでは、私自身が未熟で不安で、仕事に自信と余裕がないから、部下を叱っていたのでしょうね。でも、子育てを通して優しさと忍耐力がついた。部下に優しくなれたのです。すると、部下が怖がらずに相談にきてくれるようになりました。

 「仕事も育児もなんとかなります」と、あるインタビューで話したところ、記事を読んだ娘に怒られました。「子どもの私たちの努力や我慢があったから、成り立ったんだよ」と。本当にその通りで、うちは家族の時間も決して多くはなかったし、途中から一番家事をしてくれたのは長女でした。家族の支えがあったから、私は仕事を思いきりできたと感謝しています。

 これからの日本では、ひとりで家族を養える男性は少数派になります。女性も働くことが、家族の幸せの前提になる。出産しても働き続けることが、当たり前と皆が考えるようになる、その時期は近いと思います。

[本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします]

取材・文/松田亜子

働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が15年ぶりに単行本として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。

日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)