働く女性に支持され続けている『日経ウーマン』で、27年も続く連載「妹たちへ」。キャリアに迷い、人生これでいいのかと悩む女性たちから圧倒的な支持を得てきました。その名物連載が、15年ぶりに単行本『 一歩が踏み出せなかった私へ 』として登場。雑誌掲載当時の語りを1冊にまとめた、20人の“姉”からのエール集です。今回は女優・草刈民代さん編の第3回。踊り手としての体の限界を感じ、44歳でバレエを引退。芝居の世界で表現を追求したいと新しい環境に飛び込みます。妥協をせず、納得いくまでやり抜く姿勢が諦めない気持ちを育て、現在の自分の土台になったと語ります。 (本連載は、書籍『一歩が踏み出せなかった私へ』に収録されている内容の一部を抜粋してお届けします)
俳優
体の限界を感じ、36年のバレエ生活に終止符
ローラン・プティ、マイヤ・プリセツカヤにアーラ・オシペンコ。雲の上の存在だった憧れの方々に師事し、ルイジ・ボニーノなど一流のダンサーと踊るなかで、30代の私は自分の踊りを深化させていきました。時には、「この2日間で何があったの?」と公演を見た夫が言ったほど、踊りや佇(たたず)まいが日々変化していたそうです。超一流の方々の力を実感しました。
「もう、〝白鳥(の湖)〞は、踊れない」
そう感じたのは41歳のとき。いつも通りジャンプしているつもりなのに、体が浮かない。数年前に左足に負ったケガが完治せず、身体のバランスがどんどん崩れてくる。年齢とともに、体の限界を確実に感じていました。
日本では、古典作品が踊れなくなると舞台に立つ機会が極端に減ります。21歳から150回以上踊ってきた『白鳥の湖』が完全に踊れなくなったことを悟ったとき、引退を決意。引退公演は国内11都市で14公演。2万8千人ものお客様に見ていただくことができました。妻らしいことなど何もしない妻を、文句も言わず見守ってくれた夫や家族、応援してくださったファンの方々…。最後のカーテンコールが20分も続く間、感謝の思いがこみ上げてきました。そして44歳のとき、36年間踊り続けてきたバレエ生活が終わりました。
現役引退を意識し始め、その後の人生について考えたとき、なぜかふと、「芝居をやってみたい」と思いました。映画『Shall we ダンス?』はダンサー役だったから演じられた作品。映画に出演した後も、女優になろうと思ったことはありませんでした。それが「芝居をやってみたい」と思ったのは、私のなかで「表現したい」という思いが強くあったから。正直、踊らなくなった後にバレエの世界に居続けても、自分が納得してやりたいことが見つかるかどうか、疑問がありました。それならば踊りとは違う世界で、どこまでできるか挑戦してみたい。そんな意欲がふつふつと湧いてきたのです。
バレエを引退した翌年から、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』をはじめ、TVドラマに出演させていただけるようになりました。でも、どの撮影現場でも戸惑うことばかり。それまでバレエにしか興味がなく、バレエ以外の世界に疎かった私は、TVで活動なさっている方々についての知識もありません。そのなかで自分がどのような立ち位置でいればいいのかも分からなかった。かといって「新人です」とへりくだることができるわけでもなく。踊りでキャリアを積んできたという自負が頭をもたげるたびに、「自分を変えていかなければ、新しい世界に飛び込んだ意味がない」と言い聞かせていました。
ダンサーと役者とでは必要とされる身体感覚が全く違います。それに踊りは言葉が完全に通じなくても、踊ってしまえばコミュニケーションを取れます。色々な国のダンサーと踊ってきた経験から、相手役とコミュニケーションを取る術を身に着けてきたつもりでしたが、芝居の世界ではそれも通用しません。最初の数年は、異国から来た人のような気持ちでした。
簡単に女優になれるものではないことは、分かっていましたが、ある時期から「このまま実践を重ねるだけでは力はつかない」と気付き、レッスンをすることで演劇への理解を深める時間を持つようになりました。ニューヨークで演劇の個人レッスンを受けたり、イギリスの先生に師事したり。9年目にしてやっと、役者としてのスタートラインに立てた気がします。
若い頃から色々なものに取り上げて頂く機会がありましたが、私はメディアに出ることが好きではありませんでした。「踊っていれば、それでいい」と思っていたのです。
しかし、映画『Shall we ダンス?』に出演したとき、夫が自身の監督作品の宣伝のためにものすごい数の取材をこなしている姿を見て初めて、人に知ってもらうことの大切さを考えるようになったのです。彼はそのとき、「せっかく作品を創っても、多くの人に見てもらわなければ意味がない」と言いました。それからは私自身も、「人に知っていただく」ことの重要性を考えるようになりました。
私は「何のためにするのか分からないこと」ができません。自分のなかで目的がはっきりしないもの、見つけられないものは、本当に力が出せないのです。「なんとなく上手くやる」というのがとても下手です。動きの意味や方法が分からないまま踊っていたり、納得いかない忍耐を強いられることで、身体のバランスを崩すこともありました。
そんな性格ですので、仕事に対しての責任感から、おかしいと思うことをそのままにしておくことが出来ません。私の発言が周囲との軋轢を生むこともありましたが、必要だと思うことは納得するまでやり抜きました。上手く行かず、気持ちに流されたり、自分を見失ったりすることもありましたが、その都度自分と向き合い、妥協はして来なかったと思います。その積み重ねが今の土台となり、何があっても諦めないでいられるのだと思います。

「自分がなぜそこにいるのかを、考えることが大切。それが分かれば、何をしても大丈夫」
これは2009年引退公演の年にプリセツカヤさんから言われた言葉です。それはまさに、05年愛知万博で、カーテンコールに応えている自分の姿でした。
その公演の最後にお客様にお辞儀をしている間、私はその場にいる充実感を噛みしめていました。それは私の初めてのプロデュース公演。作品選びから、振付家や出演ダンサーの交渉にいたるまでのすべてをやりました。やはり、自分で作ったプログラムで踊るのは、全く違う感覚がありました。それは多分、「なぜそこにいるのか」を自分が本当に納得した上で踊ることができたからだと思います。
私にとって、踊ることは生きることでした。踊らなくなった今は、芝居の世界で、自分の表現を見つけたい。まだまだ分からないことも多いですが、どんなときでも気持ちに負けないで力が出せるよう、もっと演劇や映像の表現について深く知りたいと思っています。持っていない能力を出すことはできないけれど、既に持っている能力は最大限に生かしたいですものね。
大怪我をしたり、周りの人と上手くいかなかったり、いろいろな困難がありましたが、「こうありたい」という思いが強かったから、つらいことも乗り超えられました。
若いうちは、うまくいかないことが多くて当たり前。実際、軸が定まらないため、自分で自分を振り回していることって、案外多いと思うんです。自分にとって大切なこと、納得できるものは絶対にあるはず。それを見つけることを諦めないでほしい。つらいことから逃げてしまうと、それは癖になって、その後、何も見い出せなくなってしまうと思うのです。
つらい思い出は、自分の望むことに手が届いた瞬間、消えて行きます。それだけ一時的なものなのです。諦めないこと。新しい自分との出会いはその先にあります。
取材・文/松田亜子
日経WOMAN編集部編/日経BP/1980円(税込み)
