産業僧・松本紹圭が「悩めるビジネスパーソンに贈る仏教の本」2冊目は『修養の思想』(西平直/春秋社)。「修養」を分解すれば「養生」と「修行」になる。会社にも国にも頼れない時代には、身体を養生し、自立した個々人が仲間とともに修行を重ねることが大切。修養には「死への準備」という側面もあり、いつ死んでもいいように日々を懸命に生きるべきだと説く。
「修養」とは自らを耕すこと
前回 「産業僧・松本紹圭 日本のお寺は『2階建て構造』」 、日本のお寺は2階建て構造になっているという話をしました。1階は「先祖教」の空間で、2階は「仏道修行」の空間。お寺の仕事の大半は1階部分ですが、昨今は2階部分も自らを鍛える場としてビジネスパーソンなどから関心を集めている。そんな話でした。
ただ、そういう目的で2階に集う方々も、別に仏教徒になりたいわけではありません。卑俗な言い方をすれば、ある種のツールやメソッドとして活用したいということでしょう。迎え入れるお寺の側としても、その期待に応える必要があります。宗教観を出さずに、もっと普遍的に表現する文脈はないか。そう考えていたときに出会ったのが、『 修養の思想 』(西平直著/春秋社)です。私は最初、本書を読んで、なるほど日本には「修養論」というものがあったのかと思いました。
本書では、「修養」を英語で「self-cultivation」と定義しています。自分を耕すという意味です。修養を分解すると、「修行」と「養生」になります。私たちは少し体調が悪いなと感じたら、まず養生を心がけます。食べ物に注意したり、睡眠をよく取ったり、余裕があれば湯治に出かけたり。そうして英気を養いながら、自然治癒力を高めていきます。
養生によってエネルギーを充填できたら、次は修行です。大乗仏教的に言えばこれは「菩薩(ぼさつ)行」であり、「利他行」の意味も含んでいます。菩薩とは悟りを求める者のこと、菩薩行とは困っている人、苦しんでいる人に働きかけるために自分を高めることです。
忘れられていた「修養」
本書でも触れていますが、歴史を振り返ってみると、修養は幕末から明治初期にかけて盛り上がりました。当時の日本は開国を行って、欧米列強との対峙を迫られた時代。一人一人が素養を高めなければ太刀打ちはできないという機運があったのでしょう。
しかし、明治政府が駆け足で社会制度を整え、国の形が定まってくると、修養は次第に忘れ去られていきます。そして個人が自主的に行う修養から、国が主導する「教育」に置き換えられていきました。戦後になると終身雇用や年功序列の仕組みが浸透し、会社に所属していればなんとかなる、という依存体質が日本人に生まれました。養生についても、公衆衛生や保険などの社会制度が整うにつれ、自己管理から国や会社による管理へと移行しました。いざとなったら誰かがなんとかしてくれる、という安心感が定着したわけです。
しかし、周知の通り、会社が個々人の面倒をずっと見てくれるような時代は終わりました。もはや会社に所属していれば安心ではありません。追い打ちをかけたのが、一連のコロナ禍です。私も終盤になってとうとう罹患(りかん)しましたが、別に薬をもらえるわけでもなく、隔離されて安静にしているだけでした。結局は病気の治癒も、自身に備わる回復力に任されているんだと実感しました。
会社とは「菩薩行集団」
私たちが生きる時間には限りがあります。その貴重な時間を何に費やすか。それを考える上で、修養の観点は大きなヒントを与えてくれます。
例えば、会社との関係について。実力のある方なら、もはや会社にこだわる必要はなく、独立や起業の道もあるはずです。にもかかわらず、あえて会社の一員として働き続けるとすれば、そこに何らかの意味を見いだす必要があります。
もし私がその立場なら、「修行は1人ではなく、必ず仲間とやるもの」というブッダの言葉を前提に考えます。修行が目指すのは「悟り」ですが、そこに至るには良き修行が必要で、良き修行には良き仲間の存在が欠かせません。だからこそ、ブッダは誰と修行するかが大事と説いたのです。
会社は、社会のために何らかの事業を行っている組織という意味において、菩薩行集団です。その集団の方向性が自分に合っているか、仲間として信頼できるか、その菩薩行を通じて自分自身を高めることができるか。そういう気持ちで会社を選ぶような時代になっていると思います。
もちろん修養の思想は、会社との関わりだけでは論じられません。ビジネスパーソンのなかには、自分を磨くために、仏道や武士道のような「道」に関心を持つ方が少なくないと思います。この本は、「道」の基盤にあるのが修養で、それを自分の生き方の中にどう取り入れていくかを教えてくれます。これからますます会社にも国にも頼れなくなっていくならば、修養こそ精神的な支柱になり得ます。
修養は「死の準備」でもある
そしてもう1つ、本書の「あとがき」では、日本の修養「self-cultivation」は最終的に「no self」に向かうという仮説で締めくくられています。日本語にすれば、「無私」や「無我」の境地に至るといったところです。該当する言葉が多過ぎて、日本語ではかえって表現しにくいとも述べておられます。
これは文脈によっては「滅私」とも捉えられます。かつて、その滅私奉公の精神が国家に利用され、日本人が無謀な戦争を行って多大な犠牲を強いられたことは周知の通りです。だからこそ、戦後、修養という発想は封印され、廃れていった経緯もあります。その意味では、修養には危険な部分もはらんでいます。
ただし、それはそれとして、「no self」には別の文脈もあります。私は「産業僧」として、企業の方々とZoomを使って1対1で対話をすることがよくあります。これを「接心」と言います。また、許可を頂いた上でそのやりとりを録音し、AI(人工知能)の音声感情解析ツールを使い、データサイエンティストとともに分析して、企業の文化改善などに役立つようフィードバックもしています。
そこでしばしば気になるのは、定年を間近に控えたシニア世代の方々とのやりとりでした。皆さん疲れているというか、意欲を失っているというか、「もうやるべきことはやりました」「そろそろ先が見えているので」など、消沈してしまっている方が少なくありません。
こういうときに私がお話しするのは、ブッダの生涯です。仏教においてニルヴァーナ(涅槃<ねはん>、解脱<げだつ>)とは、「no self」に至ること。「私」から解放されて、一切の執着がなくなることを指します。
ブッダはニルヴァーナを、生涯で二度経験しました。一度目は35歳で悟りを開いたとき、そして二度目は80歳でこの世を去るとき。肉体そのものが滅びるという意味では、二度目こそ完全なるニルヴァーナです。言い換えるなら、仏教が目指す「no self」には「死」も含まれます。つまり、修養とは死への準備でもあるわけです。
そう考えるなら、定年は中間点でしかありません。「人生100年時代」を前提とすれば、そこから先も長い後半生があるわけで、したがって修養の時間も続きます。死に向かっているというと、ネガティブなイメージを持たれる方もいるかもしれません。でも、シニア世代のほうが若年層より死が近いことは間違いありませんので、むしろ積極的に準備を整える必要があります。それは、強みにも希望にもなるはずです。
「武士道といふは死ぬことと見つけたり」は、有名な『葉隠』の冒頭の言葉ですが、これは死を賛美しているわけではありません。いつ死んでも後悔しないように、日々を精いっぱい生きなさいということです。シニア世代のほうが、そのことを肝に銘じやすいと思います。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/稲垣純也


