産業僧・松本紹圭の「悩めるビジネスパーソンに贈る仏教の本」3冊目は『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(ローマン・クルツナリック著)。なぜ日本のお寺の仕事の大半は亡くなった人のためのものなのか。イエ制度と密接だった「先祖」を「祖先」に言い換えてみれば、私たち自身が将来世代に大切なものを引き継ぐべき「祖先」であることが見えてくる。
誰もがやがて「祖先」になる
前回 「産業僧・松本紹圭 自立を求められる時代こそ『修養の思想』を」 まで、2階建て構造になっているお寺の2階部分、つまり生きている私たちのための「仏道」に焦点を当ててお話ししてきました。しかし、お寺の仕事の大半は1階部分の「先祖教」、つまり亡くなった人のためのケアに注がれています。
なぜ、「先祖教」がそれほど大事なのか。それが生きている私たちにどう関わるのか。1つ言えるのは、仏教というより儒教的な先祖供養の受け皿として、たまたまお寺が機能してきたということです。言い換えるなら、1階部分は仏教とは関係ないという見方もできるわけです。
しかし、そういう考えを一変させてくれるのが、『 グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか 』(ローマン・クルツナリック著/松本紹圭訳/あすなろ書房)。著者はイギリスの気鋭の文化思想家です。私が翻訳するご縁を頂いたのですが、私自身も視野が大きく広がりました。
本書の中心的な問いは、日本語版オリジナルのサブタイトル「わたしたちは『よき祖先』になれるか」に尽きます。「アンセスター」は「先祖」「祖先」といった意味ですが、私はあえて「祖先」と訳すことにこだわりました。その理由は追って説明します。
未来世代から見れば、私たち自身が祖先です。例えば今、東京を歩いている人間は、100年後の2123年にはほぼ誰もいないはずです。まったく違う世代の未来人は、繁栄を謳歌しながら闊歩(かっぽ)しているか、もしくは没落して貧困や飢餓にあえいでいるか、あるいは地上に住めなくなって地下に潜っているかもしれません。
ではそのとき、彼らは100年前に生きていた私たちをどう振り返るのか。その問いかけは、私たちが後世のために何を遺せるか、そのために今をどう生きるかということでもあります。お寺の構造で言えば、生きている間は2階部分で修行をしたとしても、いつか私たち自身が必ず1階部分へ行くわけです。
そう考えると、実は日本の仏道のど真ん中にこそ、先祖教的な要素が鎮座していたとも言えます。1階部分と2階部分は明確に分かれているのではなく、つながっているし、重なってもいるのです。
ビジネスにも欠かせない視座
原始仏教に立ち返れば、ブッダは出自や家柄や貧富にはまったく関係なく、仏道を志す人をすべて受け入れて居場所を作りました。それが仏教徒のコミュニティーである「サンガ」です。その姿を踏襲するなら、お寺の1階部分は先祖教にとどまらず、もっと広がりを持っているはずです。そこには現世のすべての人々に加え、これから生まれてくる人も含まれると考えられるのではないでしょうか。
だから、私は「アンセスター」を「先祖」ではなく「祖先」と訳しました。両者の違いは一見微妙ですが、「先祖」はお墓や家系や血縁にひもづいたもの、「祖先」はそういう枠を超えた人類全体のつながりを指します。
これは、お寺だけの話ではありません。本書は宗教とは関係なく、誰もが近視眼的になりがちな昨今、これまでの遠い祖先の営みから、これからの遠い末裔(まつえい)の繁栄まで見据えた長期思考が必要と説いています。これはビジネスにとっても、欠かせない視座を提供しています。
例えば、私が生まれ育った北海道の小樽には、小樽運河という美しい景観があります。これは私たちが祖先から受け継いだ恵みの一つでしょう。実はかつて運河としての役割を終えたとき、潰そうという意見もあったそうです。しかし、地域の文化として、シンボルとして保存することになりました。つまり、無数の名もなき先人たちが守ってきたからこそ、今日の姿があるわけです。そのことに感謝し、今度は自分たちが守って後世に引き渡さなければならない。これが「よき祖先」の役割だと思います。
会社も同様です。例えばオーナー社長であれば、自分の子どもを次期社長に据えたいという思いがあるかもしれません。しかし前回述べたとおり、会社とは何らかの形で社会に貢献するという意味で「菩薩(ぼさつ)行集団」です。後世にどういうレガシーを残すか、あるいは顧客や取引先、消費者のような利害関係者にどういう価値を提供するかという観点で考えれば、おのずと発想は違ってくるはずです。
「未来世代に多くの選択肢を残す」
ゴーギャンの有名な絵画に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」があります。このタイトルは私たちにとって普遍的な問いだと思います。自分の人生を自分1人のものではなく、太古から未来へと永遠に続く人類の物語の一部として捉えているわけです。
それは同時に、「わたしたちは『よき祖先』になれるのか」という問いかけでもあります。私はダボス会議をはじめ、各界のグローバルリーダーの方々にお会いする機会をしばしば頂いています。この本の原書に出会って間もない頃、台湾のデジタル担当大臣をされているオードリー・タンさんにお目にかかる幸運を得ました。
そのとき、私が尋ねたのは「人類にとって本質的に重要な問いは何だと思われますか」。それに対するタンさんの答えは、「どうしたらよき祖先になれるか、ということです」でした。世界の賢人たちは問題意識を共有しているのかと、とても感動した覚えがあります。
さらに「よき祖先とはどういうものですか」と重ねて質問したところ、「未来世代により多くの選択肢を残すことだと思います」。未来のことは未来の人々が決めるべきで、そのときに選べる道がたくさんあったほうがいいよねと。まったくその通りです。
これは、決して大げさな話ではありません。個々人の問題に置き換えてみると、明日の私をつくるのは今日の私です。また、今日の私をつくっているのは昨日の私です。つまり、今日の私が明日の私の祖先であり、日々の行為の積み重ねによって、行く末は大きく変わってくるということです。
それは突き詰めれば、今この瞬間をいかに生きるかという問いに行き着きます。かのスティーブ・ジョブズは、毎朝鏡に向かって「もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするか」と問い続けたという逸話があります。「人は必ず死ぬ」というリマインダーを、日々に埋め込んでいたわけです。ジョブズは世界中の人々の生活を変え、社会を変え、歴史をつくりました。人類にとって「よき祖先」だったことは間違いないでしょう。
20年を経て気づいた「先祖教」の重要さ
日々を大切に生きようとする姿勢は、日本人が昔からなじんできた習慣でもあります。それがまさに「先祖教」です。
今でも、田舎の大きな家などでは、家族そろって毎朝お仏壇にお参りする習慣が残っていると思います。ご先祖様に手を合わせ、「今日も見守ってくださいね」「そのうちそちらへ行くからね」と心の中で呼びかける。誰かがデザインしたわけではないですが、これこそ「よき祖先」の集合的な知恵が作ってきた文化なのではないでしょうか。
ここで最初の疑問に戻ります。以前にも述べましたが、ちょうど20年前に仏門に入ったとき、最初に戸惑ったのが1階部分の「先祖教」の大きさでした。すでに亡くなった方のケアに、なぜここまで手間暇をかけるのか。
しかし、これを「先祖」ではなく「祖先」と置き換えることで、この疑問は瓦解します。なぜなら「先祖」という言葉は日本のイエ制度と密接ですが、「祖先」はイエ制度を超えた広がりのある言葉だからです。私たちの世代が「よき祖先」になるためには、祖先から学ぶべきは学び、後世に伝える必要がある。つまり、1階部分は仏道修行的な観点から見ても、極めて重要な空間だったのです。この本は、私にそのことを気づかせてくれました。
一般の方にとって、お寺やお坊さんは近くて遠い存在かもしれません。しかし、これまでご紹介した本などを通じ、ちょっと訪ねてみようとか、話を聞いてみようという気になったとしたら、大変うれしく思います。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/稲垣純也


