アニメ、ゲーム…。海外展開で大きな成長を目指す日本のコンテンツ産業。しかし、産業の「顔」となる経営者の姿が見えません。かつて日本には、命がけで映画文化の国際化を推し進めた人物がいました。『 川喜多長政 映画を産業に育てた日本人 』(佐伯知紀著/日本経済新聞出版)の読みどころを日本経済新聞編集委員の古賀重樹さんが解説します。
コンテンツ産業の海外展開をもくろむ経済産業省の鼻息が荒い。日本発のコンテンツの海外売上高は2023年で5.8兆円と、すでに半導体や鉄鋼を上回っているが、これを2033年までに自動車産業並みの20兆円に伸ばすという。ゲームやアニメが世界の人々の心をとらえ、映画や小説が海外で敬意を払われるなど、日本のコンテンツの潜在力が大きいのは確かだ。
ただ、どうも実感がわかない。個々のクリエイターは海外で人気や評価を得ているし、それを後押しする裏方の人々の献身的な努力も知っている。だが、それが「産業」としてオーガナイズされているかというと、どうだろう。少なくとも志のある経営者の「顔」が浮かばない。例えば2015年のカンヌ国際映画祭のジャパンパーティーには日本の大手映画会社のトップが顔をそろえたが、残念ながら彼らの周りに世界の映画人がどっと集まることはなかった。
ところが、かつては「顔」がいたのである。この本の主人公である川喜多長政(1903~81)。日本映画の黄金時代である1930年代から50年代にかけて、まぎれもなく日本を代表する国際派映画人だった。
川喜多は1928年に東和商事(現・東宝東和)を設立。妻の川喜多かしことともに「自由を我等に」「制服の処女」「嘆きの天使」など戦前のヨーロッパ映画の秀作を続々と輸入配給し、日本の洋画文化の礎を築いた。1937年にはドイツのアーノルト・ファンク監督を招き、日本初の合作映画となる原節子主演、伊丹万作共同監督の「新しき土」を製作した。
さらに日中戦争下の1939年には、陸軍の要請を受け、上海に日中合弁で設立された中華電影の経営を引き受ける。華中華南の日本の占領地域の映画配給をつかさどり、上海に残った中国の映画人による中国映画の製作を継続させた。戦争末期には日中合作映画も製作。敗戦に伴い漢奸の疑いをかけられた李香蘭が日本人・山口淑子であることを証明し、帰国に協力したことでも知られる。
戦後は公職追放を経て、洋画配給会社を束ねて外国映画輸入配給協会を立ち上げるとともに、日本映画の海外進出を促進する日本映画海外普及協会(現・ユニジャパン)を設立するなど国際的な映画ビジネスの基盤整備に尽力。映画の輸入、輸出の両面において戦前、戦後を通してキーマンであり続けた。
上海の映画人から受けた厚い人望と人脈、行動力
この評伝のハイライトは何と言っても中華電影時代だろう。満州映画協会(満映)が設立された新京(長春)と違って、上海は中国映画の中心地だった。租界に多くのスタジオがあり、大勢のスタッフや俳優が働いていた。現地の事情をよく知る川喜多は「軍は経営に口出ししない」という言質を取ったうえで、劇映画の製作はもっぱら中国人に委ねた。中国人の手で中国人の心情に訴える娯楽映画を作る体制を維持し、中華電影は配給面でこれを支える。彼らが脚本の検閲を日本軍と汪兆銘の南京政府だけでなく、ひそかに蒋介石の重慶政府にも申請していたことも黙認した。
ところが満州の関東軍はそんな川喜多の運営方針が気に入らない。満映のように日本による強力な文化工作を進めるべきだと考えた。1941年5月、川喜多は南京の支那派遣軍総司令部に呼び出され、方針転換を迫られる。それに対し、噂を聞いた上海の映画人たちは、川喜多を解任するなら、自分たちはそろって重慶に移ると言い出し、南京政府にその旨を申し入れる。
この間、満州側には川喜多暗殺の謀議もあったという。川喜多はすぐに東京に飛んで「約束違反」を訴えた。軍や官僚の誰に会ったのかはわからない。ただ、まもなく上海の現地軍と占領政策を担当する興亜院からの「満州側の裏面工作を排撃し、貴下を絶対支持する」というメッセージが伝えられた。
満州側の陰謀をはね返した川喜多の人脈と行動力もさることながら、上海の映画人からの人望の厚さに驚かされる。川喜多は自分に協力してくれた映画人たちの立場や行く末を案じていた。だから敵対する重慶政府と通じることも咎(とが)めなかった。さらに英米との開戦時には、日本軍が進駐した租界の映画館でのアメリカ映画の上映を継続させた。
戦時下の外地で、民間人として、国際人として、筋を通して生きるのは命がけであったことがよくわかる。
ひるがえって今、そんな懐の大きな経営者がこの業界にいるだろうか。視野の広さ、人脈の厚さ、冷徹な現実主義、迅速な行動、動じない胆力、強固な志、そして現場への理解と共感。川喜多の経営者としての資質は、海外での文化ビジネスに欠かせない資質に違いない。
東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)の研究員を務めた後、文化庁芸術文化調査官として映画振興政策の立案にも携わった著者はこう結んでいる。
「今もし、川喜多がここに生きているとしたら、その現実を見据えた上で、最善かつ適切な方法で、何か行動を起こすに違いない。その姿を見てみたいと思うのである」
