呼吸・発声・身体機能を整えることで、人は何歳になっても良い声を維持できます。『60歳からは、声を磨きなさい』は、5万人以上の声の悩みに向き合ってきたボイストレーナー・佐藤恵さんが、声磨きの実践法を公開した本。本書から抜粋した記事の1回目は「なぜ声磨きをお薦めするのか」。

声が通らなくなった60代部長

 定年を迎える少し前、ある60代の部長職の方が相談に来ました。会社ではずっと「通る声」の人でした。会議で一言発すれば空気が変わりました。若手も上司も、その声を「判断の合図」として聞いていました。

 ところが本人はこう言いました。

 「最近、話している途中で息が足りなくなる。声が前に出ない。言い切る前に語尾が弱くなる。すると、なぜか周りの反応も薄くなるんです」

 話す内容は変わっていない。経験も豊富にある。言っていることも正しいと思う。それでも、以前ほど場が動かない。

 そして彼の言葉が、とても印象的でした。

 「こんなことで、自分の価値が目減りするのは悔しい。でも、何を直せばいいのか分からない」

 結論を言えば、直すべき場所は「話の内容」ではなく、「声」にあります。

評価は「声」へ移り、声は「第二の肩書」となる

 人生の前半では、数字と実績があなたを守ってくれました。肩書もポストも権限もありました。多少声が荒くても、言い方がきつくても、「結果」で許される場面が多かったと思います。

 しかし人生後半に入ると、一変します。声が強すぎれば「圧がある」と受け取られる。

 逆に声が弱すぎれば「影が薄い」と見なされる。早口ならば「余裕がない」と映る。説明が長ければ「古い」と言われてしまう。

 これは、個人の問題というより、評価の基準が変わってきたことが大きいと思います。

 昭和から令和に時代が変わる中で、「正しさ」より「納得感」、「命令」より「合意」、「主張」より「関係性」が重視される社会になりつつあります。

 そして、聞き手はこの変化に無意識のレベルで影響を受けており、話の論理性よりは、声、リズム、間(ま)が重要性を増してきています。

 少し前までは話の中身がすべてでした。でも今は、中身が同じなら、「声が整っている」人の言葉のほうが説得力を持つようになりました。

 この「声が整っている」とは、美声のことでも、滑舌の良さでも、声の大きさでもありません。

 大切なのは、
 呼吸が乱れていない、
 語尾が消えない、
 間(ま)を怖がらない、
 この3つです。この3つがそろうと、声に「重み」、すなわち信頼の質感が生まれます。

 還暦を迎える頃には、多くの人は役職を降ります。名刺の効力は弱まり、権限も薄れます。しかし、それでもあなたに残るものがあります。それは経験、哲学、人脈、実績、そして声です。

 声は、肩書よりも先に相手に届きます。肩書が消えた後も、人を安心させ、方向を示すことができます。すなわち声は、人生後半の「第二の肩書」といえます。

 声は、鍛えるというよりは、整えて直すことができる身体機能です。声は筋肉と呼吸と習慣によって変化するからです。

 あなたが若い頃、仕事のやり方を身につけ、身体の使い方を覚え、経験を積み重ねてきたように、声にも自分を支える「型」を持つことをお薦めします。

8割の日本人が「話すのは苦手」

 ラジオ局で番組を担当していた頃、私は400人以上のゲストをお迎えしました。経営者、行政の方、専門家、スポーツ選手、地域のリーダーたち。そのほとんどの方は、スタジオに入るなりこう言いました。

 「いや、しゃべるのは苦手なんですよ」「滑舌が悪いので、フォローしてください」「話がうまくまとまらなくて」

 もちろん、そこには謙遜も含まれていたでしょう。ラジオは音だけのメディアなので、声や話し方に神経質になるのはわかります。でもそれを差し引いたとしても、「話すこと」に苦手意識を持っている方が極めて多かった。

 とにかく、「話す」ことに対して後ろ向きで、緊張、不安、自己否定が、話をする前に立ちはだかっているような印象でした。

人生後半は「声」を意識しよう(写真:Studio Nova/stock.adobe.com)
人生後半は「声」を意識しよう(写真:Studio Nova/stock.adobe.com)

 このことはデータでも示されています。日本生産性本部が2019年に行った調査によれば、ビジネスパーソンの約8割が、人前で話すことに苦手意識を持っており、「話すのが得意だ」と感じている人はほとんどいないという結果でした。

 これは、非常に大きな問題だと思います。なぜなら、仕事でもプライベートでも、私たちの日常は「会話」によって成り立っているからです。

声が弱ると、影響力と健康が同時に落ちる

 声が衰えると、まずその人の影響力が落ちてきます。語尾がはっきりしなくなり、息が続かず、声が前方に出なくなります。そうなると、同じ言葉を発していても説得力がなくなります。

 問題はそれだけではありません。声を出す行為は、喉まわりの筋肉、すなわち呼吸や嚥下(えんげ:食物や水分を飲み込むこと)に関わる筋群を同時に使う運動です。

 年齢とともに声が小さくなり、かすれ、長く話すと疲れるようになるのは、「筋肉が使われなくなってきた兆候」です。

 喉の機能低下が進めば、誤嚥(ごえん:食物や水分、唾液が誤って気道に入ること)のリスクも高まります。声を出さなくなることは、健康リスクを静かに引き寄せてしまうのです。

目指すは「切り札声」

 私が提示したいのは、芸能人のような発声でも、流暢(りゅうちょう)な話術でもなく、「切り札声」という声です。これは、威圧しなくても通り、相手の思考を奪わず、語尾まではっきり届く、誠実な声です。

 切り札声は人生後半の武器になります。不安な場では、自分を立て直すことができ、大事な場面では場の空気を整えることができます。家庭では空気をやわらげ、人間関係がぎくしゃくしなくなります。

 すなわち切り札声とは、誰かと戦うような「派手な武器」ではなく、あなたを支える「おだやかな武器」になります。

声を整えることによって、60歳からもう一度、自分の人生を引き受け、生き直す。健康、社会参加、人間関係を、同時に再起動させるための実践書。健康、メンタル、社会参加、仕事、コミュニケーション――。声が変われば、すべてがうまく回り出す。5万人が学んだ独自メソッドを教えます。

佐藤恵著/日本経済新聞出版/1760円(税込み)