呼吸・発声・身体機能を整えることで、人は何歳になっても良い声を維持できます。『60歳からは、声を磨きなさい』は、5万人以上の声の悩みに向き合ってきたボイストレーナー・佐藤恵さんが、声磨きの実践法を公開した本。本書から抜粋した記事の3回目は、「顔ストレッチ」と「母音の形状記憶トレーニング」について。
「声の出口」を鍛える
人の声は、(1)呼吸によって空気を取り込み、(2)声帯の振動によって音が作られ、(3)口・舌・唇(くちびる)・頬(ほほ)という「出口」で形を与えられ、初めて外へ出ます。
この(3)がうまく機能しなくなると、どれほど息がしっかりしていて、声帯が動いていても、声は前に出ません。つまり、多くの人が感じている「声の違和感」は、呼吸や声帯の衰えというより、声の出力装置(口腔、顔面)の可動域と精度が落ちていることから来ています。
現役時代、あなたの声はさまざまな目的で「使われて」いました。会議で話す。指示をする。場の空気を読んで、声のトーンを変える。意識せずとも、口元は動き、舌は働き、表情筋が連動していました。
ところが、退職後はどうでしょう。話す量が減って、緊張する場面も減り、「声を出し切る」必要がなくなります。すると、口は閉じ気味になり、舌は大きく動かなくなり、表情筋は省エネ状態に入ります。これは老化現象ではありません。使われなくなった身体の機能が一時停止しているだけです。一時停止している機能は、正しく動かせば、年齢に関係なく再起動します。
ポイントは2つあります。1つは、声の出口である口腔・顔面の筋肉を、再び「動く状態」に戻すこと。もう1つは、声の形――特に母音の形を、身体に再学習させること。
これらによって、あなたの声は無理に大きく出さなくても、感情を作らなくても、力まずとも、自然に前へ届く声に変わっていきます。
ここでは具体的なトレーニングとして、口腔・顔面のストレッチ体操3つと「母音の形状記憶トレーニング」を紹介します。
ぶくぶく体操
ぶくぶく体操は、口を閉じ、頬を膨らませたり、へこませたりする顔ストレッチです。10回行います。
人は年齢を重ねていくと、口輪筋が固まっていき、本来持っていた口の中の空間が開かなくなりがちです。ぶくぶく体操では、口腔内圧(口の中の圧力)を意図的に作り、外に漏れないよう保持します。口の中に空間があることを身体に思い出させるトレーニングです。
頬を膨らませ口の中に圧力をかけると、唇から空気が漏れないように口輪筋が強く収縮します。さらには喉の側に空気が漏れないようにするため、舌の後ろが上がって軟口蓋(なんこうがい)とくっつき、内舌筋(ないぜつきん)の収縮が進みます。その結果、声に必要な「圧」「明瞭さ」「抜けの良さ」を支える土台が整っていきます。
年を重ねるにつれ、「電話で『え? もう1回お願いします』と言われることが増えた」と感じる方もいるでしょう。この主な原因は「口の中の圧力を保てず音がぼやけること」です。ぶくぶく体操を10回繰り返すと、口の内側から口輪筋が伸び、口中の空間が広がって、言葉がはっきり出るようになります。
飴玉(あめだま)体操
飴玉体操は、左右の頬の内側を舌先で交互に押す顔ストレッチです。左右1往復を10回行います。
左右の頬を舌で押す動きは、内舌筋と外舌筋(がいぜつきん)を使い分け、中心的な働きをする主動作筋とその反対の動きをする拮抗筋(きっこうきん)を切り替える協調運動の一種です。飴玉体操によって口内の空間が大きく広がる感覚がつかめると思います。
ある営業職の役員だった方が飴玉体操を行ったところ、「右は押せるのに左がうまくいかない」とおっしゃいました。利き手や噛み癖、表情の癖は、左右差となって現れます。この違いに気づくことは、改善の始まりです。
ぐるり体操
ぐるり体操は、舌で歯をなぞる顔ストレッチです。上の前歯→左口角裏→下の前歯→右口角裏→上の前歯。これを1回転とし、右回り5回、左回り5回行います。この運動も、内舌筋・外舌筋を総動員し、舌の回転を行うことで協調運動になり、コントロール可能な舌を作るための動作です。
還暦を過ぎると、「会食の途中で声がかすれる」「口が乾いて会話が億劫(おっくう)になる」ことがあります。舌や口内の動きが小さくなると、唾液が減り、口の乾きが進みます。ぐるり体操を行えば、舌の動きが軽くなって、言葉の出だしがスムーズになることが実感できます。
以上3つの体操は、口の中に飴玉を入れて転がしているように見えるため、私たちは「ぷくぷく飴玉ぐるり体操」と呼んでいます。
これらの体操を行うと、唾液の分泌が活発になります。唾液に含まれているパロチン(別名:若返りホルモン)は美容・健康の両面で重要な役割を持っており、ドライマウス改善、フェイスラインの引き締め、むくみの軽減など、声以外の身体の変化を実感する方も少なくありません。
「母音の形状記憶」トレーニング
身体の軸、呼吸、表情筋が整ったら、次に取り組むのは発音です。お腹から押し上げられた空気は喉を通り、口から外へ出ていきます。その最終出口が口元です。ここが曖昧だと声は濁ります。
日本語の土台は5つの母音「あ・い・う・え・お」です。母音が明瞭になれば子音も安定します。母音を発すると、下あご、唇、舌といった複数の部位が同時に動きます。母音の発声を意図的に大きく、明確に行うことによって、発声時の筋活動パターンを身体に覚え込ませ、構音(音を作る過程)の再現性と安定性を高めることができます。加齢に伴い、狭まりがちな口内の可動域を保ち、各部位の協調運動を維持するという観点からも、この母音トレーニングは有効なアプローチと考えられています。
母音を誇張して発声するには、ここまで使ってきた筋肉を総動員する必要があります。
理想的な口の形を身体に叩(たた)き込むことによって、毎回同じ条件で声を出せるようになります。これを私たちは「母音の形状記憶」と呼んでいます。
母音は、下あごを開く範囲、唇の形、舌の位置で決まります。それらを大きく動かすことによって、さまざまな筋肉が収縮します。
あ:縦に指3本分、大きく開く→開口筋(舌骨上筋群・外側翼突筋)を使い切る
い:真横に引き、口角を固める→笑筋中心(+口角周辺の協調運動)
う:唇を前に尖らせる→口輪筋をしっかり収縮
え:斜め上へ引き上げる→笑筋+大・小頬骨筋
お:頬をすぼめる(唇ではなく頬)→(やや)開口筋+(やや)口輪筋の協調運動
同窓会などの席で、「乾杯!」という言葉を発しても、声が届く人とあまり届かない人がいます。母音が明確で、口の形が安定していれば、声はぶれずにはっきり聞こえます。肩書が外れた後に残る人の説得力は、案外こういうところで決まります。小さな習慣が結果を変えます。
佐藤恵著/日本経済新聞出版/1760円(税込み)




