5人の子どもたちを塾や家庭教師に頼らず、日本とアメリカで育てた本真エミさん。驚くのは、子どもたちがハーバード、スタンフォード等の米国名門大学進学、音楽の全米代表などの素晴らしい実績を持つことです。本真エミさんが選んだのは、あえて「ふつう」とは違う道でした。通わせない、詰め込まない、焦らない――“与えすぎない”育て方が、なぜ子どもの力を引き出したのか? 「引き算の子育て」の実践から、子どもの才能を育むヒントが見えてきます。
別ルートばかり選んできたわが家の子育て
私には5人の子どもがいます。上から長男(28)、長女(20)、次男(18)、三男(16)、四男(12)の5人きょうだいで、2008年以降は夫の仕事の都合でアメリカ・カリフォルニア州に移り住み、こちらで子育てを続けています。
5人それぞれ、まるで別の国の通貨のように、手触りも色合いも異なり、独自の個性を持っています。重たく深く沈思する子もいれば、羽のように軽やかに動き回る子もいて、静けさの中にいる子もいれば、どこか落ち着きのない子もいます。つまり、なかなかにぎやかです。
そんな彼らに共通しているのは、「楽器を演奏すること」。ピアノ、トランペット、コントラバスなど、抽選箱からそれぞれ違うくじを引き当てたような不思議な分かれ方ですが、彼らの楽器は単なる趣味の域を少しばかり超え、上の4人はカリフォルニア州代表、あるいは同州優勝経験を有し、中でも次男は全米代表に選出されるなど、いずれも一定の成果を収めています。
彼らは保育園には行っていません。日本語の補習校にも通っていませんし、高校も、通学制の学校を選ばなかった子がいます。塾にも行ったことがありません。いわゆる「通るはずの道」を、ひとつずつ横目で見送りながら、わりと静かに、別のルートを歩いてきた感じです。まるで、大勢が渡るつり橋を避けて、自分のペースで石畳の小道を選んだようです。それは人通りは少ないけれど、静かでよく晴れていて、風通しのいい道です。
なぜそんなふつうではない道をわざわざ選んできたかというと、大きな理由を挙げるとすれば、次の三つです。
- 子どもが5人もいると、単純にお金がかかる
(たとえばカリフォルニアでは、小中高大で公立校を選んでも、保育園から大学までにかかる費用は一人あたり3000万~5000万円、すべて私立を選べば9000万~1億5000万円以上かかることも珍しくない) - 内容や進度が画一的な一斉授業では、時間効率的に、納得できないことが多かった
- 子どもが「自分から学びたい」と思えるような環境を提供したかった
私の28年にわたる子育てをあらためて振り返ってみると、時間やお金をかけた割には正直あまり効果がなかったな、と感じることが実にたくさんあります。例えるなら、評判のいい調味料を使って手間暇かけて料理したのに、出来栄えは「そんなに変わる??」といった感じです。空振りした私のレシピは、きっとノート3冊分くらいになるはずです。
その多くは、母親である私自身の、与えすぎやこだわりすぎ、つまり“教育”という名の魔法に酔いすぎたことに起因しているようにも思います。そうやって何度も空振りしながら、私の子育ての旅路は、ふと気づけば、「一般的に常識とされていること」を選ばない、あるいはさせない方向に流れていきました。
保育園や学校、塾には無理に行かせない
わが家の子どもたちは、保育園には通っていません。
理由は大きく二つあります。ひとつは容赦ない保育料の高さ、そしてもうひとつは、幼少期に日本語の基礎を家庭内でじっくり育みたいという思いからです。子どもがまだ小さいうちは、しっかり向き合って過ごす時間そのものがかけがえがなく、親子の時間を優先するのも決して悪くないと考えました。社会性は、少し後になってからでも十分に育つ。私はそう信じています。
また、海外で子育てをする家庭が共通して抱える悩みのひとつに、日本語教育があります。わが家では、日本人子弟であれば通うのが当然とされている“日本語の補習校”にも子どもたちを通わせていません。
週末の時間を“第二の学校”に費やすよりも、その時間と財源を、子どもたちが好きな音楽に投資したいと思いました。日本語の定着には、漫画やアニメ、日本映画を日常的に楽しめるよう、環境づくりにも工夫しました。
学童期に入ってからも、この方針は変わりませんでした。全米でフルタイムのオンラインスクールに通う子どもは、全体の2~3%に過ぎませんが、その少数派の道を高校で自ら選んだ子もいます。オンラインスクールを支持することは、親としてかなり勇気が必要でしたが、彼らにとって最も自由で、最も集中できる学びのかたちを見つけ、その道を自分の力で走り切ろうとする姿勢を尊重することにしました。
なぜなら私は学校を、親にとっての「会社」のような場として捉えたくなかったのです。「行って当然」「嫌でも我慢して通うべき場所」といった見方を押しつけるのではなく、学校はあくまでも、学びや人との出会いを楽しむための場であってほしいと考えています。
学校の方針や先生の判断にすべてを委ねるのではなく、常に子どもの声に耳を傾け、ともに考え、悩みながら問題に向き合う。それこそが、親として果たすべき大切な責任のひとつだと信じています。
また、わが家では塾にも通わせていません。単純に経済的な理由でもありますが、それ以上に、子どもたちには知識の詰め込みではなく、「興味」と「探究心」に根ざした学びを育んでほしかったからです。塾に頼らずとも、学ぶ意欲は十分に育てることができます。
今の時代、インターネットと一定の大人のサポートさえあれば、年齢や学年の枠にとらわれず、自分のペースで深く学び進めることが可能です。動画を通して概念を視覚的に捉え、オンライン講座で体系的に学ぶ。世界中の質の高い教材や解説にアクセスすることもできます。こうした「探し、選び、組み立てていく学び」は、単なる塾の代わりではなく、まったく新しい角度から生まれる、もうひとつの学びのかたちなのです。
だから私はレールを外れてみることにした
買い物も診察もオンラインで完結し、誰もが手のひらのスマホひとつで世界とつながれるこの時代になっても、不思議なほど形を変えないのが“学校”というシステムです。
Wi-Fiで世界とつながり、画面越しに会話を交わすことが日常になっても、学校では今もなお、先生が黒板にチョークを走らせ、出席簿にひとつずつ名前を記しています。
多様性や柔軟性が重視される時代になっても、教室では全員が同じ方向を向き、整然と並ぶ子どもたちの姿があります。それはまるで、きれいに箱詰めされた野菜のように、均質で整った風景に見えるかもしれません。けれど、その裏では、一人の先生が30人前後の異なる個性に目配りしながら、それぞれのリズムに対応していかなければならないという、非常に繊細で過酷な現場があるのです。
学校という仕組みは、確かによくできていると思います。多くの家庭にとって必要不可欠な場であり、親や社会にとっても、重要な役割を担っています。ただその一方で、すべての子どもにとって常に最適な環境であるとは限らないのではないか。そんな疑問を、私は持ち続けてきました。
たとえば、子どもが抱える悩みや目に見えないプレッシャーが、学校という空間の中で静かに進行し、親の知らないところで子どもたちが深く傷ついてしまうことがあります。また、学校という場所が“平均”や“調和”を前提に設計されているからこそ、その枠に収まりきらない子どもたちは「できない子」や「扱いにくい子」とラベルを貼られ、少しずつ自信を失っていくこともあるでしょう。
一方で、能力の高い子どもが、全体のペースに合わせることを優先され、自分の力を発揮する場面を持てずにいることもあります。どちらのケースにも共通するのは、「学校のシステムが合う子もいれば、そうでない子もいる」という当たり前の事実です。
だから私は、あえて別の選択肢に目を向けることにしました。
子どものやる気を育てる「引き算の子育て」
子どもが自分のペースで、自分に合ったスタイルで学べる環境を選んでみよう。誰かが用意したレールの上ではなく、自分の足で、自分の道を歩いていけるように。魚釣りに例えるなら、魚を与えるのではなく、釣りざおを子どもに託し、一緒に釣り方を考える。時には釣れないことがあっても、まぁいいかと笑えるようになる。そんな育ち方があってもいいのではないかと思ったのです。
その選択には、もちろん不安もありました。「大丈夫だろうか」と立ち止まることがあっても「きっとなんとかなる」と自分を信じて進むしかない。それは、子どもが初めて水に飛び込むときのような、ちょっと怖いけれど、思い切って一歩を踏み出す、そんな気持ちに近いかもしれません。
それに、5人の子どもを育てるということは、教育にかけられる時間や費用に限りがあります。子育ては想像以上にお金がかかるものだからこそ、少なくとも義務教育の間は、できるだけ無理のない形で、家庭の中に「学びの環境」を築いていきたいと思ったのです。
そうした全ての思いが私の「引き算の子育て」につながっていきました。
足しすぎないことで見えてくるもの。
与えすぎないからこそ育つ力。
そんな“余白”のなかにこそ、子どもが本来のリズムで伸びていくための、静かな伸びしろがあるのだと、私は信じています。
親として大切なのは、何かを常に与え続けることではなく、子どもが自分で選び、迷い、ときに遠回りしながら歩いていけるだけの“余白”と“信頼”を手渡すこと。そして、見守る勇気と、待つ力。それこそが、子どものやる気を育てる「引き算の子育て」において最も必要なものなのです。

