はみだし銀行員から一念発起して、未開拓の鉄道事業に飛び込む。沿線の不動産分譲、宝塚の開発、梅田の百貨店と、阪急電鉄創業者、小林一三は、100年以上前に今の鉄道経営の形を築き上げた名プロデューサーだ。小説家はだしの文才、大衆の心をつかむ着想力が強みとなった。今回は、小林一三の自伝『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』を取り上げる。

阪急文化の生みの親

 「Love the really plush seats! Hankyu. Hankyu very much. ふかふかの座席がすごく気に入りました! 阪急電車、ハンキューベリーマッチ」。今から2年近く前、2022年5月12日、X(当時のTwitter)に和文と英文でこう投稿した人物がいる。元の英文の方には鉄道の絵文字までついている。

 投稿の主は鉄ちゃん、つまり鉄道ファンとして知られるラーム・エマニュエル駐日米国大使である。シカゴ市長としても辣腕(らつわん)を振るい、公共交通網の整備に力を入れたエマニュエル氏に、「ハンキューベリーマッチ」と言わしめた阪急の車両。関西で生活したことのある方にはその説明は不要だろう。

 阪急電鉄の前身、箕面(みのお)有馬電気軌道が誕生したのは1907年(明治40年)。2006年には阪神電気鉄道と合併して阪急阪神ホールディングスとなった。だが今でも阪急と阪神は別の車両が走っており、沿線の文化も異なる。今回、その自伝『 逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想 』(講談社学術文庫)を紹介する人物、小林一三(1873年[明治6年]~1957年[昭和32年])こそが、その文化圏をつくった経営者である。

『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』(小林一三著)(写真:スタジオキャスパー)
『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』(小林一三著)(写真:スタジオキャスパー)
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 ゆったりとしたちょっとぜいたくな時空間といったらよいのだろうか。谷崎潤一郎の作品を持ち出すよりも、2011年に中谷美紀らが演じて映画にもなった有川浩の小説『 阪急電車 』(幻冬舎文庫)を手に取れば、その雰囲気が伝わってくる。舞台は西宮北口と宝塚の間を走る阪急今津線。乗客である登場人物が少しずつ触れ合うことで、さりげない希望が生まれていく。

 首都圏の鉄道でそんなタイトルの小説や映画をつくるのはちょっと難しい。鉄道と街づくりが一体となった戦略は1世紀の単位で実を結んでいる。自叙伝を手にして初めて、その理由に触れることができる。まずひとつ、福澤諭吉の下、慶應義塾で学んだ小林は、授業そっちのけの文学青年だったことである。

 「レニス嬢は少しく笑を漏らして薔薇花を弄せるのみ、嬢の笑は真に花の笑に異ならず…」。18歳の学生時代、出身地・山梨の新聞に連載した小説は、こんな美文で始まる。1890年(明治23年)にカナダ人教員が殺害されたラージ事件を素材にした推理小説だ。小林自身は文才を生かし小説家になることを望んだが、銀行員となる。

はみだし銀行マン

 三井銀行(現三井住友銀行)時代、小林は普通の銀行員にはとどまらなかった。さまざまな交友の輪を広げるが、この自叙伝は単なる仕事の自慢話ではない。小林は女性たちとの関係を率直に語っている。新婚早々、昵懇(じっこん)の愛人と有馬温泉に。帰宅すると妻がいない。東京に帰ったというのだ。結局、その愛人を妻とする。その素行は非難の的になった。

 小林は大阪の北浜で証券会社を立ち上げるべく、10年あまり勤めた銀行を辞めた。それから後は波瀾(はらん)万丈である。妻と3人の子を連れ大阪に降り立ったその日に、日露戦争後の株式ブームが終わり、株価は暴落。証券会社の創設どころではなくなった。家族を抱え浪々の身となる。小林に救いの手を差し伸べたのが、北浜銀行の岩下清周頭取である。

 小林に舞い込んだ仕事は箕⾯有⾺電気軌道の創設だ。海のものとも山のものとも知れぬベンチャー事業。多くの創業委員がさじを投げるなか、小林は鉄道敷設予定の大阪・池田間を2度歩いて往復し、ひとつの着想を得る。「その間に、沿線における住宅経営新案を考えて、…企業計画を空想した」のである。小林は北浜銀行の岩下を訪ね、提案する。

 岩下は三井銀行出身で、北浜銀行を立ち上げ、豊田式織機(トヨタ自動車の前身)など多くの事業の創設に携わった、日本資本主義黎明(れいめい)期のインベストメントバンカー(投資銀行家)である。岩下は小林の提案にうなずき、こう諭す。「君も三井を飛び出して独立したのであるから、自分一生の仕事として責任をもってやって見せるという決意が必要だ」

 銀行員として組織のなかで仕事をするのと、自ら事業を経営するのとではまったく異なる。小林は奮い立ち、箕⾯有⾺電気軌道を引き受ける決意をして、未経験の鉄道事業に飛び込む。明治の創業者である。

鉄道事業モデルを100年以上前に構想

 1910年、梅田-宝塚間の宝塚線と石橋-箕面間の箕面支線の営業を開始。同時に「池田室町住宅地」の売り出しを始め、⼟地建物分譲事業に乗り出す。13年、後に宝塚歌劇団となる宝塚唱歌隊を結成し、14年には第1回公演を行う。26年には旧宝塚ホテルを開業し、29年には梅田で阪急百貨店をオープンする。鉄道の始発、終着駅に開業するターミナルデパートである。

 なかでも阪急の代名詞となった、少女だけで構成する宝塚唱歌隊。桃太郎の一代記である『ドンブラコ』、喜歌劇『浮かれ達磨』、そしてダンス『胡蝶の舞』。この3つが処女公演の演目である。演目の雰囲気は1世紀たった現在もあまり変わっていない。あるとき、演目をめぐる対立から演出家が雲隠れした。すると小林は「一夜にして」というのは誇張だろうが、短期間に自作の芝居を用意し上演してみせた。文学青年だった面目躍如である。

 沿線の住宅開発からレジャー施設運営、駅と連結した百貨店。今日では当たり前となった鉄道事業の形を1世紀前に考え出し、実現していった小林の構想力と実行力には驚かされる。一部のインテリだけを相手にしていては事業として成り立たない。むしろ文化を幅広く開放する。会社などに勤めながら芝居や音楽を鑑賞し、休日には家族とともに遊園地でリラックスする。そんな都市型の生活者こそを小林は顧客とした。

 小林の理想が国全体に無理なく広がるかにみえたのが、バブル期になる前の80年代半ばの日本だったように思われる。文芸評論家の山崎正和は、仕事と文化、まじめとあそびをうまく調和させた生き方を、「柔らかい個人主義」と表現した。山崎自身が関西圏を基盤にしたこともあり、阪急文化圏の生活者がそのモデルのようにもみえる。

 84年に刊行された山崎の『 柔らかい個人主義の誕生 』(中公文庫、現在は増補新版を販売中)は、そんな時代をうたい上げた古典である。阪急梅田駅にある紀伊國屋書店で山崎の本を手にし、一気に読み終えたあの時代が妙に懐かしい。小林が「大衆」と表現した中間層を経済学者の村上泰亮は「新中間大衆」と名付けた。折しも日本は一億総中流といわれた。

 バブルの膨張と崩壊は社会の格差を広げ、小林の理想を揺さぶった。日経平均株価は34年ぶりに最高値を更新し、日本はようやく長く続いた停滞からの出口にさしかかっているようにみえる。しかし、山崎の本と同じ84年に世に出た村上の書物の表題である『新中間大衆の時代』(中公文庫)は、もう戻ってこないだろうか。小林の遺産を前に妙なほろ苦さを感じつつも、それを再び目指すべきときのようにも思える。