アダム・スミス生誕300年に当たる今年、2023年。文庫になった『 国富論 (上)(中)(下) 国の豊かさの本質と原因についての研究 』(アダム・スミス著/山岡洋一訳)は、3巻で1400ページを超える大著だ。しかし、プロの翻訳家、山岡洋一氏による訳文は、「生産力」を「生産性」と訳すなど、容易に理解できる日本語を用いていて読みやすい。この新訳をもとに、経済学の父、アダム・スミスがのこした現代へのメッセージを探ってみよう。
使い慣れた日本語で訳し直す
今年2023年は経済学の父アダム・スミス(1723~90年)の生誕300年。それを記念して主著『国富論』(THE WEALTH OF NATIONS/1776年刊)がこの4月、日経ビジネス人文庫に加わった。何種類もの翻訳があるこの古典の新訳を2007年に世に問うたのは、山岡洋一氏。経済学者ではなく、プロの翻訳家である。
07年、新たな訳が出版された際に山岡氏にインタビューを行った。経済と社会について深く考え抜き、その中身をかみ砕いて記したスミスの古典を、街行く人にも分かるように伝えたい。そんな心意気がほとばしり、話は尽きなかった。翻訳作業をしているときの所作なのだろう。たばこの煙が途切れることはなかった。
「一流の経済学者が訳したから一流の翻訳とは限らない」。そう啖呵(たんか)を切る山岡訳が目指したのは、『国富論』をとても世間では通用しない専門用語の縛りから解き放つこと。スミスが意図したように、普通に使われる言葉で訳し直すことだった。挑発的な新訳は冒頭から始まる。
「生産力」を「生産性」に
「労働の生産力」が定訳だった「the productive powers of labour」。そこに山岡氏は「生産性」の訳語をあてた。「労働の生産性が飛躍的に上昇してきたのは分業の結果…と思える」(第1編第1章「分業」)という具合だ。どこが違うのか。
従来の定訳である「生産力」は、むろん単なる生産高や生産量、生産額といった意味ではなく、由緒正しい経済用語である。「物質的財貨を生産しうる力。労働力と生産手段とが一定の生産関係を通じて結合することによって生み出される」(デジタル大辞泉)。いかにもたどたどしい。
あるいは「生産力と生産関係の矛盾」といったマルクスのおなじみの定式と結び付くことで、この訳語は霊験あらたかだったのだろう。山岡氏はそんなしがらみを捨て去り、経済の言葉でも普通の会話に出てくる「生産性」に訳語を変えた。
生産性なら「労働投入量1単位当たりの産出量・産出額」(日本生産性本部)という定義が定着している。手っ取り早く言えば、「労働者1人当たり、あるいは労働1時間当たりでどれだけ成果を生み出したか」である。「分業のおかげで生産性が高まった」と言うなら、ビジネスパーソンの日常会話そのものである。
学者がためらってきた一歩を踏み出したことが、山岡訳の持ち味である。翻訳は原典講読のための逐語訳ではない。読者が訳文からだけでもスンナリと意味を読み取れるよう、自己完結した文章であるべきだ。山岡氏の訳業にはそんな思いが結実している。
とはいえ文庫版で上・中・下3巻、合計1400ページあまりの『国富論』は、スンナリと読み通せる書物ではない。スミスの筆運びは時に脱線し、同じ中身の繰り返しも少なくない。初心者が迷子にならないためには、下巻の巻末に付された根岸隆・東京大学名誉教授の解説を一読してから、スミス登山に乗り出すのも一法である。
「自由放任」も「夜警国家」も出てこない
ジョン・ケネス・ガルブレイスによれば、『国富論』は『資本論』や『聖書』と並ぶ、読まれざる古典である。その罪はスミス自身にあるというより、中学・高校の教科書で暗記の対象とされてしまったことにある。「見えざる手」や「自由放任」、あるいは「夜警国家」といった言葉はゴシックで記され、アンダーラインを引くように求められる。だが山岡氏も指摘するように、「自由放任」や「夜警国家」といった言葉は『国富論』には出てこない。
「見えざる手」が出てくるのは、第4編第2章「国内で生産できる商品の輸入規制」における1カ所だけだ。いわく、自分の利益を増やすことを意図した行動は、「見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進する」。「自分の利益を追求する方が、実際にそう意図している場合よりも効率的に、社会の利益を高められることが多い」。
「市場の失敗」より「非市場の失敗」
だが、自由市場への賛歌と紹介されるスミスの文章はこう続く。「社会のために事業を行っている人が実際に社会の役に立った話は、いまだかつて聞いたことがない」。公益の名をかたる様々な規制が経済と社会の足かせになっている。お互いに知略を尽くした競争に委ねたらよいではないか。そこにはキラリと光る人間洞察があり、大人の知恵が満ちあふれている。
21世紀の今、市場の失敗や格差の拡大が語られ、産業政策などで政府の役割が強調されている。だが、資本の使い道を政治家や立法者に委ねると、「配慮する必要などまったくない点に配慮する結果になる」。「自分こそがそれを行使するほど適任者だと思い込むほど愚かで身の程を知らない人物が握れば危険このうえない権限を引き受ける結果となる」。
市場の失敗より非市場の失敗の方がはるかに大きい。この洞察は人間性の本質が変わらない限り真理であろう。そして、スミスの主張は自由貿易の主張へと展開していく。旧ソ連を筆頭にした共産圏が崩壊した1990年代以降は、スミスの世界が現実化したようにも見えた。だが今、我々が直面するのは米中の角逐であり、世界経済の分断である。
ここでもスミスのさりげない一言は奥深い。「隣国が豊かであれば戦争と国際政治では確かに危険だが、貿易では明らかに有利である」(第4編第3章「貿易収支が自国に不利とされる国からの輸入に対するほぼ全面的な規制」)。軍事転用可能な高度技術は国際政治や安全保障の点で、自国に大いなる危険をもたらす、とみなされる。相互不信の連鎖の前には、貿易による利益の教説はかすんでしまう。
訳者の山岡氏は経済についても一家言を持っていた。「山岡さん、スミスなら21世紀の難問にどう答えたでしょうね」。そう話しかけたいが、それはかなわない。2011年に心筋梗塞で他界されたからだ。様々な課題については、スミスの著作を読みながら自分で考えるほかない。新訳『国富論』はそのための豊かなヒントである。
『 国富論 (上)(中)(下) 国の豊かさの本質と原因についての研究 』
本書は、例えば日本経済新聞を読むように、日常の言葉に移し替えた画期的翻訳で多くの方から好評を博してきた単行本を文庫化したもの。難渋な翻訳調の文章を前に諦めていた方も、古典中の古典である『国富論』を読む好機です。
アダム・スミス著/山岡洋一訳/日本経済新聞出版/上巻=1540円、中巻・下巻=1430円(いずれも税込み)


