財政を立て直すには、国民所得を増やす以外に方法はなく、国民所得の増加は雇用の増加とほぼ同じ――。『ケインズ 説得論集』(日経ビジネス人文庫)は主著『雇用、金利、通貨の一般理論』より前に、雑誌や新聞に発表された解説・提言集。リーマン・ショックやデフレを経験してきた私たちが読み返すと、ジャーナリスト、ケインズの真骨頂が浮かび上がる。
生誕140年にみえてきた別の顔
1929年10月、ウォール街を襲った株暴落。世界恐慌の到来を前に英国政府はなすすべを知らなかった。そんななか大胆な財政出動による景気対策を唱えた経済学者こそが、今年生誕140年を迎えたジョン・メイナード・ケインズである。
ケインズといえば財政政策。だがもはやケインズの時代ではない。そんな言い回しは一知半解のジャーナリズムの定番である。あるいは日本の財政赤字を膨らませた張本人を、ケインズ流の景気対策に求める識者には事欠かない。
だが2008年9月のリーマン・ショックを経て本書を読むと、全く異なるケインズの相貌が浮かんでくる。本書とは『 ケインズ 説得論集 』(ジョン・メイナード・ケインズ著/山岡洋一訳/日経ビジネス人文庫)だ。新聞や雑誌を舞台にした解説・提言は、歯切れ良いうえに寸鉄人を刺す。大経済学者がジャーナリストの才を発揮したこの論文集のなかに、現在の金融危機を活写したかのような一文がある。
「通貨価値崩壊が銀行に与えた影響」(1931年8月)だ。その時点ですでに農業、鉱業、製造業、運輸業が打撃を受け、失業が深刻化していた。でもさらに深い谷が待っている。
事態を一段と悪化させるのは、世界各地の「銀行の経営難」だ。ケインズはそう断じた。私たち預金者は資金の貸し手である。経済活動を営む企業は資金の借り手である。貸し手と借り手の間に立って、スムーズに資金を流すのが銀行の役割である。ところが物価が大幅に下落し、資産価値が壊れてしまうと、銀行を支える信用の基盤はボロボロになってしまう。
銀行の急所はマージンの喪失
ケインズが最も恐れたのは、金融システムの破綻である。彼は「マージン」を銀行業にとっての急所とみた。ここでいうマージンとは、担保の価値と貸付金の差額のこと。銀行は担保からマージンを差し引いた金額しかおカネを貸さない。だから担保の価値が多少下がっても、マージンの範囲内ならば、貸付金が傷つくことはない。
ところがどっこい世界恐慌の結果、担保の価値が軒並みマージンを割り込むほど下がったのである。これは当時の銀行にとって未体験の出来事だった。担保の価値が大きく値下がりしたのは、原材料など商品ばかりでない。
銀行が担保にとっていた大企業の株式は、世界の主要株式市場で40~50%の暴落を演じた。最上級ではない債券の価格は10~15%の下げとなった。外国政府債券の価格も大幅安となった。不動産価格の下げが目立ったのは米国で、農地価格が大幅に下落したほか、都市部のビルも建設コストの60~70%の価格でしか売れなかった。
そして顧客の事業を支える銀行の貸し出しである。この貸し出しこそは、「すべての資産のなかで最悪の状況になっていることが多い」。ケインズはそうダメ出しする。商品、株式、債券、不動産、貸し出しは、いずれも銀行が保有する資産である。だから「資産の金銭価値の下落が現在のように深刻になると、金融構造全体の健全性が脅かされる」のだ。
どこかで見た感じがしないだろうか。米国でいえばリーマン・ショックが引き金を引いた金融の修羅場であり、日本では山一証券などが相次いで破綻した1997年の金融危機である。今年3月のシリコンバレーバンク破綻をきっかけとした米国の金融不安だって、辛くも土俵際で抑えているのが実情だろう。ケインズの描いた世界は現代の金融危機にも届いている。
意図せずして金融の修羅場を招き寄せてしまう「健全」な銀行家とは何者か。「危機を予測し、うまく避ける人物ではない」。ならば、どのような人物なのか。「破綻するときには、ごく普通の常識的な理由で、多数の銀行家と同じ時期に破綻するので、誰も非難できない銀行家」なのだ。有り体にいえば、他人の行動を見て、横並びで行動する人々。「健全」は最大級の皮肉であり、金融がはらむ危うさの根っこを突いている。
インフレよりデフレの方が悪い
バブル崩壊後の日本が長く苦しんだデフレ。ケインズはデフレをその時代の病根と診断していた。例えば「通貨価値の変動が社会に与える影響」(1923年)。こう明言する。「デフレは、企業家が損失を避けようとして生産を減らすので、勤労者と企業にとっては窮乏を意味する。したがって、雇用が悲惨な状況になる」。文字通りデフレの害だ。
ではインフレとデフレのどちらが悪いか。「ドイツで起こったような極端なインフレを除外すれば、おそらく、デフレの方が悪い」。ケインズの回答だ。それは「(インフレで)金利生活者が失望することより、(デフレで)失業が増えることの方が悪い」という判断に基づく。日本のように高齢化に伴い年金生活者が増えると、デフレよりインフレを嫌う声が強まりがちだ。それも日本のデフレを長期化させる要因だったのだろうか。
ともあれケインズが精魂を傾けたのは、大量の失業と遊休施設が生じた不況下で、どうやって企業を動かし、雇用を創出するか、という極めて切実な課題だった。設備が遊んだままになっている世界では、人々の貯蓄は直ちに投資や生産には結びつかない。
「景気拡大の政策(総選挙、1929年5月)」でこの大経済学者は言う。「豊かになるのは、ケチに徹して金を貯(た)める人ではない。実り多い投資に自分の金を投じる人なのだ」。だが事業の採算が見通せない不況にあっては、民間企業だけを待っても投資は出てこない。そこで政府の財政政策の出番となる。
「繁栄への道」(1933年)と題した不況打開策は、ケインズ政策の本領発揮である。公共投資や乗数効果の議論は主著『 雇用、金利、通貨の一般理論 』(1936年/大野一訳/日経BPクラシックス)を先取りする。いま改めてかみしめたいのは、「繁栄への道」で示された財政の健全化についての彼の主張だ。
いわく、「財政を均衡させるには、国民所得を増やす以外に方法はなく、国民所得の増加は雇用の増加とほぼ同じ(だ)」。これとは逆に「増税や緊縮や警戒によって財政均衡を図ろうとする政策は、間違いなく失敗する」。ケインズの洞察は、この点でも現在に通じていないだろうか。
マクロ経済学の祖といわれるケインズは、実はタイムリーに現実経済を解説した時論家でもあった。20世紀を代表する経済学者による時論の数々は、読みやすい新訳を得て、時代を超えた輝きを放つ。
ジョン・メイナード・ケインズ著/山岡洋一訳/日本経済新聞出版/1430円(税込み)


