動物たちの姿を借りて、ロシア革命後のソ連で演じられた権力構造の変質を描く『動物農場』は、『1984年』と並ぶジョージ・オーウェルの傑作小説。革命の理想がいつしか全体主義へと変わっていく過程は、75年たっても古びるどころか、ますます新しい。

ウクライナ語版への序文

 「民主国で啓蒙(けいもう)された人々の意見を、全体主義的なプロパガンダがどれほど簡単にコントロールできてしまうか…」

 これは2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻をめぐる解説ではない。英国の作家、ジョージ・オーウェル(1903~50年)が1947年に記した、『 動物農場 』(1945年刊)のウクライナ語版への序文である。

 『動物農場』は動物たちの姿を借りて、ロシア革命後のソ連で演じられた権力構造の変質を描いている。搾取(さくしゅ)者である人間を追い出し、動物たちの理想郷をつくる。そんな革命の夢が、次第に新たな独裁者に食い尽くされ、動物による他の動物に対する搾取を生んでいく。

『動物農場』(ジョージ・オーウェル著/山形浩生訳/ハヤカワepi文庫)(写真:スタジオキャスパー)
『動物農場』(ジョージ・オーウェル著/山形浩生訳/ハヤカワepi文庫)(写真:スタジオキャスパー)
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 「すべての動物は平等である」。革命のスローガン「七戒」にはこううたわれていた。偽りの理想郷の支配者となった、知識に秀でたブタたちは、「だが一部の動物は他よりもっと平等である」と開き直る。権力を握った革命家たちによる都合のよい言い換えへの、作者の皮肉がにじんでいる。

 なるほどスローガンの変更など、あらゆる政治につきものなのかもしれない。だが反対意見を表明する場を奪い、異を唱える人たちを粛清し、人々を偽りのスローガンに唱和させる。『動物農場』が描いた世界こそ全体主義の本質である。安易な相対化は本書の誤読だろう。

 様々なニセ情報や情報操作を駆使しつつ、隣国ウクライナに攻め入ったプーチン大統領のロシア。その手法は『動物農場』が描いたスターリン体制下のソ連と変わらない。だから75年の歳月を経ても、オーウェルは古びるどころか、ますます新しくなっている。

人間を追い払って動物たちの理想郷を築いたはずが、いつしか人間の社会に近づいていく(写真:shutterstock)
人間を追い払って動物たちの理想郷を築いたはずが、いつしか人間の社会に近づいていく(写真:shutterstock)
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 「新たな冷戦」。米国と中ロが激しく対立する2022年の今、メディアはしたり顔でそう解説する。あるいはフランスの歴史人口学者、エマニュエル・トッドのように「第3次世界大戦はもう始まっている」と言う識者もいる。

 その前に「冷戦」という言葉を使い出したのは誰なのか。「鉄のカーテン」演説のチャーチル元英首相あたりだろう。ずっとそう思ってきたのだが、違った。これもオーウェルだったのである。

 「征服不可能であると同時に周辺国とも永遠の『冷戦』状態にある国家…」。超大国が核兵器を持ちにらみ合う「いつまでも延長されていく『平和なき平和』の状態」をオーウェルは「冷戦」と名付けた。広島、長崎への原爆投下の2カ月後のエッセー「あなたと原爆」(1945年)においてである(『あなたと原爆 オーウェル評論集』秋元孝文訳/光文社古典新訳文庫)。

 ロシアのウクライナ侵攻は、核兵器のない時代であれば米欧がウクライナの助太刀に入ることで、東西の軍事衝突に発展していただろう。バイデン米大統領が米軍の直接派遣を重ねて否定するのも、軍事衝突が核戦争にエスカレートするのを恐れているからに他ならない。

 その結果、第3次世界大戦が辛くも防がれている一方で、ウクライナの地では第2次世界大戦の独ソ戦を思わせる凄惨な戦いが続く。超大国間の「平和なき平和」の代償が、小国を舞台にした「熱戦」と言ってよい。オーウェルの洞察は21世紀の今に届いている。

 ロシアとウクライナの戦争が長期化すれば、米ソがにらみ合った第2次世界大戦後の世界が再現されかねない。それに中国が加わる。中ロ両国は「戦略的提携」を深め、国際秩序に挑戦する意思を固めつつある――。このほど12年ぶりに改定された北大西洋条約機構(NATO)の「戦略概念」は、そんな認識を示す。

3つに分かれた世界地図

 どこかで見た光景である。そこでも世界はユーラシア、オセアニア、イースタシアの三大国の鼎立(ていりつ)の様相を呈していた。ディストピア(暗黒世界)小説の代名詞『1984年』(1949年刊)が描く世界地図である。読み返すと、各国の支配地域はゾッとするほど今日的だ。

  • ユーラシア――ロシアがヨーロッパを併合し、アジア大陸の北部をも支配する。
  • オセアニア――米国が英国を併合し、南北アメリカ、オーストラリア、アフリカ南部を支配。
  • イースタシア――中国とその南の国々、日本、モンゴル、チベットなどから成る。

 欧州連合(EU)諸国が天然ガスなどエネルギーの首根っこをロシアに握られている現実を見れば、「ユーラシア」の支配地図は思い半ばに過ぐ。脱炭素と脱原発の帰結とも言えるが、ドイツのメルケル前首相らは、ロシアの専制体制が持つリスクから目を背けていた。

 米国による英国の併合も、EU離脱(ブレグジット)後の英国を見ていると、さもありなむ。「オセアニア」はアングロ・サクソンということだろう。そこにはオーストラリアの名も挙がるが、図らずも米英豪3カ国による安全保障の枠組み「オーカス」が成立している。

 中国に組み入れられた日本という地図にはドキリとする。しかし、これも作家の妄想などではない。「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」。中国の習近平国家主席は2017年11月にトランプ米大統領(当時)にそう語っている。太平洋の東を米国、西を中国で分割しようとの提案は、現在の「イースタシア」そのものだ。

 ロシアによるウクライナ侵攻は皮肉にも欧州や日本への目覚まし時計となったが、三大国による分断が固定された『1984年』型の世界は、我々にとって心地よいものではない。「戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり」。『1984年』に登場する真理省の標語である。

『動物農場』ではレーニン、スターリン、トロツキーとおぼしき3匹のブタが描かれる(写真:shutterstock)
『動物農場』ではレーニン、スターリン、トロツキーとおぼしき3匹のブタが描かれる(写真:shutterstock)
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刊行を躊躇した英の出版社

 オーウェルの批判の射程は、客観的事実が疎んじられる「ポスト真実」時代の現在に届いている。そんな言い回しはオーウェル再評価の約束事である。それを承知の上であえて言いたい。オーウェルの『動物農場』を労働者の国ソ連への批判とみた当時の英国の出版社が、出版に二の足を踏んだ時流への迎合を軽視すべきでない、と。

 「インドでの飢餓は公表しても、それがウクライナで起きたら隠すのが…適切なことだと考えられた」(「『動物農場』序文案」、山形訳)。スターリン体制の食料収奪によってウクライナでは数百万人の死者が出た。にもかかわらず識者たちにとって“沈黙は金”だったのである。

 『動物農場』の被支配者である心優しい動物たちは、ブタどもによる「七戒」の書き換えや歴史の改ざんにいともたやすく丸め込まれていく。「すべての動物は酒を“過度に”飲んではならない」。ブタどもが飲酒するために「過度に」との抜け道を作ったのだが、昔からそう書いてあったと言われれば、ウマやウシたちは何となくそんな気がしてくる。私たちの多くはそんな心優しい動物なのだよ、とこの小説は伝えてくる。