民主的な平和の追求か、軍備増強による生き残りか――。日本の外交を巡る対立軸は、中江兆民の時代からほとんど変わっていない。『三酔人経綸問答』に登場する「南海先生」の柔軟な思考は、今を生きる私たちに響くものがある。
外交はいつの世も難事
2022年4月、2年前に新型コロナウイルス感染症で逝(い)った元外交官の岡本行夫氏をしのぶ会が都内で催された。その席でのことである。「岡本さんだったら、どんな知恵を出してくれたろう」。そう述べつつ、元首相のひとりが「今の岸田文雄政権は米国のいいなりだ」という感想をもらした。ロシアのウクライナ侵攻以降の、日本の外交についての指摘である。
日本は今も昔もロシア・中国と、お付き合いの難しい国をお隣に持っている。誰が担っても外交のかじ取りは容易ではないだろうに。話を聞きながら、現役だったらどうしたのだろうとの思いを拭(ぬぐ)えなかった。
中江兆民の『 三酔人経綸問答 』(鶴ヶ谷真一訳/光文社古典新訳文庫)を改めて手にしてみた。すると、日本の外交の立ち位置が生き生きと描かれている。本書が世に出たのは明治20年(1887年)。日清戦争(1894~95年)の前である。当時の日本は幕末に結んだ不平等条約によって、欧米列強に治外法権を強いられていた。
西欧文明の民主的進歩を信奉する「洋学紳士」、ナショナリズムに立脚し、大陸進出を唱える「東洋豪傑」、そして理想と現実の緊張関係を知る「南海先生」。兆民その人は「洋学紳士」に共感を寄せる「南海先生」であるようでいて、「東洋豪傑」の主張の意味もよく理解している。時にユーモアを交えつつ、3者が奏でる調べは今日の課題へも響いてくる。
丸腰で平和を守れるか
紳士君の主張は、平和を実現するには専制を廃し、民主制を樹立することが必要というものだ。国が分かれているのは君主がいるからで、世界が主権在民となるならば、地球市民にとって国名は単なる名称にすぎなくなる。今はそうなっておらず、列強は剣を持つ。戦っても勝てぬ小国日本は、先頭を切って軍備を撤廃し、道義によって世界をリードすべきだ。そう主張する。
歴史の教科書に出てくる中江兆民は、自由民権運動の思想的指導者だ。「東洋のルソー」。そんな異名をとる兆民の代表作を実際手にした人は、兆民は紳士君のような議論に貫かれているはず、との先入観を持っていることだろう。だが読み進むにつれて、そうした先入観は心地よく打ち砕かれていく。
豪傑君が問う。「それならば、もし凶暴な国があって、わが国が軍備を撤廃するのに乗じて、軍隊を送って来襲してきたら、どうしますか」。紳士君は、「ぼくはそのような凶暴な国はけっしてないことを知っています」。それでも鉄砲を向けるなら、「弾を受けて死ぬだけのこと」と答える。
自衛隊の発足から、日米安全保障条約の改定、集団的自衛権に至る戦後日本の防衛論争。与野党の応酬を集約するようなやり取りである。それだけなら武装、非武装の平板な議論にとどまるのだが、その先には今も昔も変わらぬ国力の自画像が浮かび上がる。
英仏独露という欧州の列強のアジア進出に、日本はひとりでは太刀打ちできない。老大国の清も日本の前に立ちはだかる。『三酔人経綸問答』には小国日本の危機感がひしひしと漂っている。この辺の安全保障を巡る不安感は今の日本にも共通する。
さらに明治の日本が直面した進歩と保守の葛藤は、時代を経ても変わらぬ社会の対立軸である。ここで豪傑君がハッとする解決策を提示する。アジアかアフリカにある、老大国への軍事進出である。この老大国を支配下に収めることで、日本も大国に雄飛する。これは中国への進出論であり、戦前の日本は、最終的にはそこで失敗した。
百年の計に奇抜さはいらない
2人の議論に耳を傾けた南海先生は、おもむろに自らの意見を開陳する。紳士君の論は、いまだ世に実現されることのなかった燦然(さんぜん)たる思想を象徴する瑞雲(ずいうん。めでたいことの前兆として現れる雲)。豪傑君の論は、古今の偉人たちが実現させたといっても、今日では不可能になった政治上の幻戯(マジック)。どちらも実際の役に立つものではない、と退けるのである。
ならば、南海先生の唱える外交とは何か。「努めて友好を重んじ、国の威信をそこなうことがない限り、決して国威と武力を誇示することをせず、言論、出版、さまざまな規制は次第にゆるやかにし、教育の実施、商工業の活動は、次第に充実を図る、などです」。
2人がいささか平凡と落胆するや、「国家百年の大計とあっては、いたずらに奇抜さや新味を求めて喜んでいるわけにもいきません」と、居住まいを正すのである。
世の中の兆民のイメージとはいささか趣を異にする柔軟なリアリズムが、本書には流れている。理想と現実を行き来するところに『三酔人経綸問答』の奥深さがあり、それは兆民自身の思考と行動の反映でもある。
例えば明治4年(1871年)に、兆民は維新三傑のひとり大久保利通に、自らを政府派遣留学生に採用するよう売り込んで、その夢を実現させている。派遣先のフランスで面識を得た公家の西園寺公望(後に首相)を、自らが主筆となった民権派の機関紙『東洋自由新聞』の社長に招き入れたのも兆民である。
権謀も時には必要だ
そして明治8年(1875年)には旧幕臣の代表格、勝海舟の元に出入りするようになり、明治政府の改革を進言する。野に下った西郷隆盛を東京に呼び戻し、時の政府を転覆させようと促したのである。自由民権運動の指導者である板垣退助には批判的で、言動の振れに対して兆民は厳しいまなざしを向けている。
「権謀とは決して悪いものではない。聖人賢者といえども何かを成しとげようと思えば、権謀を捨て去るわけにはいかない」
胃がんのため明治34年(1901年)に55歳で死去した兆民は、生前最後の書『 一年有半 』(鶴ヶ谷真一訳/光文社古典新訳文庫)でそう記している。ただし権謀は理想実現のために用いるべきだ。その認識は『三酔人経綸問答』から離れてはいない。
写真(本)/スタジオキャスパー