広島・長崎への原爆投下によって、科学の負の側面を目の当たりにしたアインシュタインは、国際連合総会と安全保障理事会の改革によって、核兵器を「世界政府」の管理下に置くべきだと主張する。『科学者と世界平和』(講談社学術文庫)は、このアインシュタインの「国連総会への公開状」とソ連の学者4人の反論、アインシュタインの再反論を収録したもの。核戦争の危機に対しどこか他人事だった私たちは、今こそ天才科学者の提言に耳を傾けるときかもしれない。
アインシュタインの問題提起
2024年のアカデミー賞受賞作『オッペンハイマー』。池のほとりでロバート・オッペンハイマーとアルバート・アインシュタインが何事かを語り合う、思わせぶりなシーンからこの長編映画は始まる。2人は自分の悪口を言っているのではないか。そう嫉妬心を抱いた人物、ルイス・ストローズ(原子力委員会委員長)がオッペンハイマーの追い落としを図る。
では、「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマーはどのような人物で、原子爆弾の開発にはどんな人間模様が絡んだのか。現在と過去を行き来する時間の流れを自在に描く、クリストファー・ノーラン監督らしい作品だが、この映画に奥行きを与えているのはアインシュタインの存在だろう。ラストで明かされる2人の会話の中身をこれ以上記すのはよそう。
とても印象的なのは、原子から解放された巨大なエネルギーを使った爆弾がものすごい破壊力を持つことへのアインシュタインの反応である。そして核兵器が使用された世界に直面したアインシュタインは、1947年に「国連総会への公開状」をしたためる。それにソ連の科学者4人が連名で反論し、さらにアインシュタインが再反論する。
そのやり取りを収めた『 科学者と世界平和 』(井上健訳/講談社学術文庫)。「われわれが国際的組織の問題を解決する能力に欠けているために、技術開発の進歩は現実には、平和と人類の存在そのものを脅かす危険に貢献するものになっています」。アインシュタインの問題提起は、核兵器をめぐる国際政治の緊張が高まる今、書かれた感じさえする。
国連改革の現実的な解
彼の処方箋は「超国家的な政府を絶えず発展させていくこと」、つまり「世界政府」の形成である。それだけを聞くと浮世離れした学者の夢物語と思えるだろう。筆者もそうだった。この本をひもとくまでは。でもアインシュタインの提言は、予想外に現実的な国連改革だったのである。国連総会の権限を強化して、安全保障理事会を総会に従属させること――これである。
「総会と安全保障理事会の間で権限をめぐる紛糾があるかぎり、制度全体の有効性はそこなわれたままで、どうしようもない」。公開状はそう断じている。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以来、いよいよ隠しおおせなくなった安保理の機能不全。常任理事国が拒否権を行使すると、国際紛争解決という国連の仕事はストップしてしまう。
多くの国々と共に日本も訴える国連改革の一丁目一番地が、この安保理改革なのである。第2にアインシュタインが唱えるのは、各国から国連に派遣される代表の変更。各国政府から送られる外交官ではなく、各国ごとの選挙で選ばれた政治家にする。そして機能を強化する国連総会は常に開催され、仕事に取りかかれるようにすべきだという。
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸に鉄のカーテンが降ろされた」。英国のウィンストン・チャーチルによるフルトン演説が、米ソ間の冷戦到来を告げたのは1946年3月。アインシュタインもこう認める。「ロシアおよびその同盟諸国は、なおこの種の世界政府の外にとどまることが得策と見なすかもしれません」
あきらめなかったアインシュタイン
そのうえで、まずは「部分的世界政府」からと提唱するのである。理想主義に区分けされるこのアインシュタイン提案。真っ向から攻撃を加えたのは、ソ連の科学者たちである。錦の御旗は共産主義国家の独立だ。
「現在、『世界的超国家』の提唱者たちは、資本主義的独占の世界制覇のための綺麗な看板にすぎない『世界政府』のために、この独立を自主的に放棄することをわれわれに求めつつあるのです」。「アインシュタイン博士の計画に従って再建される総会は、最終的決定権をもつことになり、大国間の一致の原則は放棄されなければならないことになります」
帝国主義の手先と罵倒されたアインシュタインの心境やいかに。「あなたがたはこと経済にかんする領域では、無政府状態にたいするあのように熱烈な反対者でありながら、こと国際政治にかんする領域では、……無制限な国家主権の擁護者である」。返信はソ連科学者たちのねじれを突いてみせる。
ソ連側には「ほとんど際限のないほどに強い孤立主義への傾斜」があると見て取るのである。普通ならここでさじを投げるところだろうが、それでも説得をあきらめようとしない。「意見の相違や対立のすべてでも、われわれのすべての身に降りかかっている危険に比べれば無意味なほど瑣末(さまつ)事にすぎない」と考えるからだ。
われわれのすべての身に降りかかっている危険が、核兵器であることは言うまでもない。かつて、ナチスドイツが原子爆弾を開発する前に米国が開発すべしとの書簡を、フランクリン・ルーズベルト大統領に送った。そんなアインシュタインであるが、広島と長崎に投下された核兵器がもたらした破壊と悲惨を目の当たりにして、核兵器の廃絶を強く訴えるようになった。
岸田首相のライフワーク
『 原子力は誰のものか 』(ロバート・オッペンハイマー著/美作太郎、矢島敬二訳/中央文庫)に収められたオッペンハイマーの講演も、アインシュタインとの一致点が見て取れる。「原子力の分野に世界政府が創設されるべきこと、この分野では国家主権が放棄されるべきこと、この分野では法的に拒否権が認められないこと」(1946年1月、「核爆発」)。
ならば、原爆を投下された日本はこの問題をどう捉えるべきなのか。中国、ロシア、北朝鮮など核保有国を周囲に持ち、米国の核の傘によってその安全を保持している立場から、時の政権・与党の政治家たちの物言いはいつも歯切れが悪い。
街行く人たちも核兵器の問題は見て見ぬフリをしているのが実情だろう。そんななか、核兵器の問題をライフワークにしている政治家がいることを忘れていないだろうか。広島選出の岸田文雄首相その人である。『 核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 』(日経BP)は選挙目当ての単なるPR本ではない。
長く外務大臣を務め、国際政治の厳しい現実に直面しながら、一歩でも核兵器のない世界に近づこうとする。そんな秘められた情熱に基づく岸田外交の歩みが、冷静な情勢分析と共に記されている。国際政治の副読本ともなり得る本なのである。2024年8月14日に退陣を表明した首相を冷笑気味に扱うのが仕事と心得ていたマスコミ関係者は、この本と真剣に向き合っているのだろうか。
写真/スタジオキャスパー
