美徳とはさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない。人を誉めるのは自分が誉められたいから。謙虚とは他人を服従させるための見せかけの服従だ――。17世紀のフランス貴族ラ・ロシュフコーの『箴言集』は、ポリコレと建前論が行き交う現代を挑発する言葉にあふれている。今は亡き辛口コラムニスト、山本夏彦の残した『茶の間の正義』と併せ、秋の夜長に味わいたい。
名優・松重豊が突くポリコレの世情
「今日もヤクザの親分役だ。抗争があって敵の組本部に乗り込むシーン。黒塗りの乗用車の後部座席にどっかと座り、苦虫をかみつぶしたような表情で短銃をゆっくりと確認し、手下に出発を促す。ここで『カット』の声」。
『日本経済新聞』夕刊のコラム「あすへの話題」。俳優の松重豊さんが「守らねばならぬこと」と題してこんなことを書いている。カットとは撮り直しである。何のことだろう。
「助監督がこちらにやってくる。『すみませんシートベルトの着用をお願いします』。おっと忘れていた。ピストルを持って人殺しに向かうとしてもシートベルトは必須なのだ」「これがコンプライアンスって奴だ」。コンプライアンス、つまり法令順守が最優先されるこのご時世。なかなか言えることではない異議申し立てを、ユーモア(諧謔)に包んでさりげなく放ってみせる。矜持(きょうじ)と含羞(がんしゅう)の人、松重さんは何者かである。
ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ。すなわち異論を許さない建前論が世の中を支配している。新聞をくまなく読んでも、松重さんのような言説は稀有(けう)である。そう思って書棚をひっくり返すと、出てきた。『 ラ・ロシュフコー箴言(しんげん)集 』(二宮フサ訳/岩波文庫)である。
自己愛・虚栄心・嫉妬
ラ・ロシュフコー(1613~80年)は17世紀フランスの貴族。箴言とは簡潔に記されたいさめの言葉、格言である。面白いの何のって、本編504ある箴言は読みだしたら止まらない。
「われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない」(箴言1)。初っぱなから毒がある。心のなかに潜む「自己愛」の悪戯(いたずら)を見抜いているからだ。誰でも人から誉められたい、認められたい。
だから「自己愛こそはあらゆる阿諛追従(あゆついしょう)の徒の中の最たるものである」(箴言2)。「嫉妬の心には愛よりもさらに多くの自己愛がある」(箴言324)。「他人の虚栄心が鼻持ちならないのは、それがわれわれの虚栄心を傷つけるからである」(箴言389)。
自己愛、虚栄心、嫉妬は心の中でとぐろを巻いている。若いころ読んでも何と嫌みなとしか思えなかった『箴言集』の言葉が、馬齢を重ねるにつけ一つひとつ胸に突き刺さる。「人の話は3分、自分の話は3時間」は話の長い人への皮肉だが、ラ・ロシュフコーも同じことを言っている。
会話はなかなかかみ合わないものだ。愛想のよさそうな連中でも、「こちらの言うことに対する上の空な気持と、自分の言いたいことに話を早く戻したがっている焦燥が、ありありと見てとれる」(箴言139)。聞く力? 良き聞き手とは、それを悟られない人たちのことだろう。
相手を乗せるためには誉めるに越したことはない。「人はふつう誉められるためにしか誉めない」(箴言146)。なるほど。そして「称賛を固辞するのはもう一度誉めてほしいということである」(箴言149)。もちろん「自分は追従を憎んでいる、と人は時どき思い込む。しかしそれは追従の仕方を憎んでいるに過ぎない」(箴言329)。
座布団一枚。人が新しい知り合いを好むのも、これらと関係がある。「われわれをあまりにもよく知っている人たちからは充分に誉めそやしてもらえない忌々しさと、彼らほどよくわれわれを知らない人ならもっと誉めてくれるだろうという希望」(箴言178)からだ。宮廷やサロンの雰囲気は今日の職場にも通じるものがある。
『箴言集』は美徳の裏にあるものを見逃さない。「大らかさと見えるものも、実は小利に目をくれずに大利をねらう、偽装した野心に過ぎないことが多い」(箴言246)。ここはうなずけるとして、「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない」(箴言254)。いんぎん無礼と思われるようでは、謙虚の修行が足りないというわけだ。
人間性や道徳について思索を巡らした人々をモラリストという。人間のあり方が変わらぬ限り、モラリストの洞察は現在まで届いているはずで、数々の建前論へのちゃぶ台返しとなる。もちろん日本にもラ・ロシュフコーを思わせる“箴言集”を紡いだ人がいる。いたというべきか。
「茶の間の正義」を斬る山本夏彦
今は亡き山本夏彦(1915~2002年)はどうだろう。「テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを『茶の間の正義』と呼んでいる」。何か。「眉ツバものの、うさん臭い正義のことである」。1967年刊行のエッセー集『 茶の間の正義 』(「改版」は2003年刊/中公文庫)の冒頭にこう言う。
テレビの元は新聞。「『社説』は、修身の権化である。自分は決して履行しない、履行するつもりのないモラルを説く。そしてその自覚はない」。政治家はカネと欲のスキャンダルにまみれているという。「けれども、身辺清潔の人は、何事もしない人である。出来ない人である」
自分は棚に上げて「為政者だけに、金もいらぬ、名もいらぬ、命もいらぬ、まるで西郷隆盛みたいな大人物であれという。その手前勝手に皆さんが気がつかないのは、かさねて言うが、根底に嫉妬心があるせいである」。自分がその地位に立てば、同じことをするではないか。単にその地位にいないから、立派なことを言える、というわけである。
『茶の間の正義』に示される山本流の物言いは単なる政治談議ではない。「つくづく見れば、わが内心には残忍も虚栄も嫉妬も、言うまでもなく十分である」。「人は隣人の悲運をひそかに喜ぶ。愁傷のふりをして、いそいそとかけつけ、家中を見回して、昨日に変わる零落ぶりをひそかに喜ぶ」
これなどは『箴言集』そのものである。中学時代に自殺未遂を起こした山本は、15歳でフランスに渡り、フランス共産党主導の夜間大学で学んだこともある。多感な10代後半の3年間をフランスで過ごした山本の筆致が矜持と含羞を帯び、フランスのモラリストを思わせるのは不思議でない。
何かというと欧米を引き合いに出す知識人やメディアを「西洋人になりたいのだ」と突き放す(『世間知らずの高枕』新潮文庫)。何を薄っぺらなことを。その筆さばきの根っこには自らの西欧体験があるし、戦後は建築関係の雑誌を編集、発行した実生活から紡いだ言葉がある。
今ではここまで言い切れるエッセイストはちょっと見当たらない。メディアが半世紀前より一層強くポリコレに浸っているからだろうし、一つひとつの言葉が生活から遊離しているからでもあろう。これからは秋の夜長である。あえてゆっくりと、『箴言集』の一つひとつと山本のエッセーを味わってみてはいかがだろうか。
写真/スタジオキャスパー
