誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みんな、敵がいゝ。敵がないと事ができぬ――。江戸城の無血開城の立役者として、幕末・維新史にその名が刻まれる勝海舟。その勝が遺した証言集『海舟語録』(講談社学術文庫)は、苦境に立つ組織人がひもとくとよい珠玉のオーラルヒストリーだ。
政治的人間の透徹したまなざし
勝海舟その人についての説明は不要だろう。西郷隆盛との談判で、江戸城の無血開城を行った人物として、幕末・維新史にその名が刻まれる。文政6年(1823年)生まれの勝は明治32年(1899年)まで生き、べらんめえ調の証言を残した。『 氷川清話 』(江藤淳、松浦玲編/講談社学術文庫)の姉妹編をなす『 海舟語録 』(同)がそれだ。日本史の中でも屈指の政治的人間の語りは、道半ばで苦境に立たされた組織人がひもとくとよい珠玉のオーラルヒストリーだ。
「ナニ、誰を味方にしようなどといふから、間違うのだ。みンな、敵がいゝ。敵が無いと、事が出来ぬ。国家といふものは、みんながワイワイ反対して、それでいゝのだ。己などは、その見幕だつた」(明治31年11月30日の条)。福沢諭吉の「多事争論」を思わせる言い回しは、先例踏襲に陥っていた徳川幕府にあって、とがった近代性を示している。
蘭学の中でも砲術を修めながら、世に入れられず鬱屈としていた勝。彼を歴史の檜舞台に押し出したのは、ペリーの黒船来航だった。衝撃を受けた幕府は、広く意見書を募った。応募したのが、無役の旗本、勝である。嘉永6年(1853年)に提出された建白書は、喫緊の課題として軍制改革、人材登用、訓練の3つを挙げる(『 幕府海軍 ペリー来航から五稜郭まで 』金澤裕之著/中公新書)。
やがて勝は幕府の長崎海軍伝習所で艦長の一人となる。さらに咸臨丸で米国に。ところが艦長として指揮を執るはずだったのに、自室にこもって出てこない。熱病にかかりしばしば吐血したというのだ。だがその態度たるや、とても単に伏せっていたのではない。勝の上司にあたる木村摂津守喜毅はこう証言している(『新訂 海舟座談』巌本善治編/勝部真長校注/岩波文庫)。
「ソウ格式を破るという工合にもゆかないので、それが第一不平で、八当たりです。終始部屋にばかし引込んでいるのですが、…相談すると、『どうでもしろ』という調子で…実に困りました」。年下の木村より腕は自分が上との不満なのだから、扱いにくい存在である。
「はなはだしいのは、太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテーラ〔ボート〕を卸してくれなどと、水夫に命じた位です。それで福沢〔諭吉〕の伝にあるように、ただ舟によったというのではなく、つまり不平だったのです」。こうなると、ちょっと処置なしだ。
幕府内で衝突を繰り返す
やがて幕府の軍艦奉行並に。軍艦奉行が空席となった後は、幕府海軍のトップとなった。余人を持って代えがたい実力が認められたのだが、角の取れぬ勝は幕府内で衝突を繰り返し、失脚と復活のすごろくは目まぐるしい。最後の将軍、徳川慶喜とは反りが合わなかった。勝はさりげなくこう語る。
「陛下はヲレを御信用なさらない。…慶喜公でもさうだ。徳川家を禍(わざわい)するものは勝であるといふ事を、書面にも書かれたのを見た」(明治29年10月17日の条)。陛下とは明治天皇である。明治維新後も「二三度伊藤サンを出し抜いた事がある」(明治31年2月16日の条)。伊藤サンとは伊藤博文である。
将軍、天皇、首相と時のトップに忖度(そんたく)するのではなく、国家という公共の存在に尽くそうとした勝の自負がうかがえる。その勝にとっても西郷は別格だ。慶応4年(1868年)3月14日、2人の膝詰め談判で城を明け渡し、江戸を戦火から救う。「西郷は訳がわかつてるもの、安心なものサ」(明治30年3月27日の条)。ここは政治という芸術である。
勝が幾度も語るのはフランスからの借款問題である。慶喜はフランスからの借り入れに傾いたが、勝は真っ向から反対した。「ドウしても、いけませんツ」(明治29年9月17日の条)。借金の返済が滞ることを口実に、植民地にされかねないことに、危機感を抱いたのだ。「慶喜公は済むまいぢやないか。さういふ国を売るやうな事をして置き、又大政奉還後、外交の事は、依然、此の方にて取扱ふなどといふ書簡を各国公使に渡した」(明治30年4月22日の条)。手厳しい。
維新後も国内の融和に奔走
無血開城で彼の仕事は終わったと見られがちだが、違う。維新後には、勝は国内の融和に努めていた。ひとつは明治10年(1877年)の西南の役。西郷軍に呼応して旧幕臣の不満分子が事を起こしていけない。そう念じた勝は人目を避けつつ、ある行動に出た。
「毎晩々々出て、十二時頃に帰った程だ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買つたり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した」(明治30年3月27日の条)。古道具屋や古着屋が武家の商法なのはいうまでもない。旧幕臣たちに単にカネを配ったというより、彼らのガス抜きを図ったのだ。「どうして警視などで、ゆくものかイ」は自負である。
勝は慶喜と明治政府との歴史的和解を成し遂げる。静岡に蟄居(ちっきょ)していた慶喜が、江戸から名前を変えた東京に戻ったのは明治30年(1897年)11月。宮中への参内を許されたのである。「どうして、慶喜公は、早くから、出たくて出たくてならないのだからネ」(明治31年2月16日の条)。それを機が熟するまで待って実現させた。最晩年の海舟は肩の荷を降ろした気持ちだったろう。
「あなたの徳で、善い家来を持ったなどと思ひなさるな」「あなたに御奉公するのぢやアありません」(同)。維新後も慶喜には容赦がない。それでいて海舟こそは頼りがいのある臣下だと感じていたためだろう。大勢の子持ちだった慶喜が、明治30年当時未婚だった2人の子どものうち1人を「コチラへよこさうとか、何とか言うのが」(同)。微苦笑を誘う語り口である。
半世紀も政治で飯を食ってきたと自負する勝を、福沢諭吉は「瘠我慢の説」(『 明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 』講談社学術文庫所収)で痛烈に批判した。戦わずして徳川幕府に幕を引きながら、維新後も海軍卿や枢密院顧問などの要職を務めたことに対し、「敵国の人士と並立て得々名利の地位に居る」のは「怪しむべき」と非難した。
明治24年(1891年)の草稿を福沢から送られた勝は短く答えた。「行蔵(こうぞう)は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せず」。行蔵つまり出所進退は自らで決める。ご批判はどうぞご随意に、という意味だ。自身への痛烈な批判をも「行蔵は我に存す」と言い放ったのは、いかにも胆力というほかない。
そういえば覚えておられる方もいるだろう。令和4年(2022年)1月17日の施政方針演説で岸田文雄首相が「行蔵は我に存す」と述べたことを。それから約2年。政治とカネの問題で与党自民党は火だるまとなっている。だが首相自身は経済と外交の立て直しに持てる力を振り絞る決意のようだ。海舟に私淑するなら、今こそ腹をくくったらよい。「毀誉は他人の主張」「みンな、敵がいい」と。

