量子コンピュータを理解する第一歩は、私たちの日常の常識が通用しない量子力学の世界を知ることです。原子ほど小さな世界では、「測る」という行為そのものが対象に影響を与えてしまいます。ここでは『 量子革命 量子コンピュータからネット、ハード、AIまで ― すべてを変える新技術 』から、F1カーを原子サイズまで小さくする思考実験を通じて量子力学の根幹をなす「不確定性原理」とは何かをひも解きます。

(画像:davidhewison/stock.adobe.com)
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 この本の目的は、量子コンピュータの仕組みをシンプルにわかりやすく解説し、読者の皆さんを量子通信やその他の量子技術の世界など、すぐそこまで来ている未来へと案内することです。その旅の第一歩となるのが量子力学です。量子力学は、私たちの世界に対する理解を根本から変革した理論です。しかし、この世界を理解するには、少し心構えも必要です。なぜなら、量子コンピュータをはじめとする未来の量子技術は、私たちの日常的な経験や常識とは相容れない、一見すると直感に反する概念の上に築かれているからです。だからこそ量子力学は、この一世紀以上にわたって科学者たちを魅了し続けてきました。そしてその魅力は、専門家だけでなく、広く人類全体をも惹きつけ続けているのです。

 量子力学という理論の本質的な特徴は、古典物理学が前提としていた「確実性」に代えて、「確率」という考え方を導入したことです。ある現象が起こるかどうかを確実に予測することはできず、私たちはそれが起こる確率を計算することしかできません。この新しい物理学は、単なる自然科学の理論にとどまりません。それは一種の新しい哲学としての性格も帯びています。量子力学は芸術、音楽、文学、精神分析、さらには社会科学にまで影響を与え、またそれらから影響を受けながら発展してきました。
 量子力学が誕生した時期、ピカソは「アビニヨンの娘たち」を描き、フロイトは「夢判断」を執筆し、シェーンベルクは「ペレアスとメリザンド」を作曲していました。二十世紀初頭の数十年間、人類のものの見方そのものが大きく転換しました。その変化は人間の知的活動のさまざまな分野で同時に起こり、それまで支配的だった世界観や文化を乗り越えていきました。そして後になって、その旧来の世界観や文化は「古典的」と呼ばれるようになったのです。

そもそも、量子系はどのように記述されるのか

 好奇心旺盛な方が、この分野の専門家である科学者に「量子コンピュータとは何ですか」と尋ねたなら、おそらく最初に返ってくるのは、最も単純で当たり障りのない答えでしょう。量子並列性や指数関数的増大といった小難しい議論に踏み込むのを避けるため、彼らはこう言うはずです。「量子コンピュータとは、量子力学の法則を利用して情報の処理、つまり計算を行うコンピュータのことです。その仕組みゆえに、通常の古典的なコンピュータよりもはるかに効率的です」と。
 この答えは、このテーマを扱った科学解説記事などでよく目にするものであり、これを聞いた方は、一見すると自分が求めていた答えに一歩近づいたような気分になるかもしれません。しかしよく考えてみると、実はスタート地点から一歩も動いていないことに気づくはずです。というのも、この定義は単に問題を別の形に言い換えただけだからです。では、なぜ量子コンピュータはそれほど強力なのでしょうか。

 この問いに答えるには、まず量子系をどのように記述するのかを理解しなければなりません。それは、私たちが日常の経験で慣れ親しんでいる方法とはまったく異なります。古典力学の世界では、ある物理系について関心のある性質を観察し、それらに数値を割り当てるのが自然な考え方です。たとえば動いている車を記述する場合、速度や位置といった要素に注目し、それらを時間とともに測定して記録します。この方法によって、車の現在の状態を知ることができるだけでなく、その後の動きを予測することもできます。たとえば、F1グランプリを観戦しているとき、ほかの条件が同じであれば、最も速い車が優勝するだろうと予想できます。
 では、私たちが観察しているレーシングカーの大きさをどんどん小さくしていき、数個の原子ほどの大きさになったと想像してみてください。すると、これまでとは異なる振る舞いが見えてくるはずです。わずか数個の原子からなるレーシングカーは、私たちの測定行為そのものに反応するようになり、状況は一気に複雑になります。
 なぜでしょうか。
 そもそも、私たちはどうやって車の速度を割り出しているのでしょう。ある時刻とその次の時刻における位置を測定し、移動した距離と経過時間がわかれば、速度を計算することができます。つまり、速度の測定は、結局のところ位置の測定に帰着します。そして位置の測定は、人間の目やカメラ、レーザーセンサーといった装置によって行われます。これらはいずれも、最終的には車から放たれる、あるいは反射される光や電磁波を捉えることで情報を得ています。

量子の世界では「測る」だけで対象が変わる

 この測定の方法は、私たちにとってあまりにも自然で当たり前のものに思えます。そのため科学者たちは何世紀にもわたってこれを当然の前提として受け入れ、そこに概念的な問題が潜んでいるとは考えもしませんでした。
 実は、この一見何の問題もなさそうに見える測定の過程こそが、古典物理学を捨て、新たな法則を導入しなければならなくなった根本的な理由なのです。というのも、もし対象がF1の車のような大きさであれば、その位置を測定しても車自身やその速度に影響を与えることはほとんどありません。位置を知るために当てる光は、車にとっては事実上無視できるほど弱いからです。
 ところが、その車がわずか数個の原子で構成されているとなると、話は別です。測定に必要な光がどれほど弱くても、その光は原子と相互作用し、影響を及ぼしてしまいます。たとえば、光が当たることで「押す力」が生じ、車の位置が変わり、それによって速度も変化してしまうのです。放出されうる最小の光の単位、すなわちたった一個の光子でさえ、原子に対して与える影響は無視できません。それはちょうど、F1カーの位置を測るために大砲の弾を撃ち込むようなものです。そんなことをすれば、車に影響が出ないはずがありません。このように、光の一回一回の衝突が、「原子サイズの車」の位置や速度を大きく変えてしまう可能性があるのです。

 この驚くべき事実こそが、原子の世界に踏み込むときに物理法則を見直し、再構築しなければならない理由です。もはや観測装置が観測対象に影響を与えないとは言えません。量子の世界では、「測る」という行為そのものが、私たちが理解しようとしている対象を変えてしまうのです。
 この効果は、魅力的な「不確定性原理」の基礎となっています。この原理は、1927年に、当時二六歳の若きドイツ人科学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによって提唱され、私たちの世界の見方を一変させました。不確定性原理が明らかにしたのは、乗り越えることのできない限界の存在です。すなわち、自然そのものが、粒子の「位置」と「速度」を同時に、しかも完全な精度で知ることを禁じているのです。
 重要なのは、この限界が測定装置の性能不足によるものではないという点です。測定技術は改良を重ねることで、より高精度にすることができるでしょう。しかし、不確定性原理が示す限界はそうした技術的な問題ではありません。それは宇宙の法則そのものに組み込まれた、本質的かつ根源的な制約なのです。

量子力学がもたらす技術革命の現在地

桁外れの計算能力を持つコンピュータ、盗聴を検知する通信、超高精度センサー。夢のような革命を「量子技術」が実現します。科学の最前線を、誰もが理解できる言葉で描いた一冊。

ジュリアーノ・ベネンティ(著)、ジュリオ・カサティ(著)、シモーネ・モンタンジェロ(著)、森弘之(訳)/日経BP/2750円(税込み)