「優秀」な人が集まっているはずの組織で、なぜ不条理な運営が繰り返されるのか? 今回は日本の組織の同調圧力と「若手の牙を抜く構造」について。日本企業の“組織的茶番”を分析する組織学の第一人者、太田肇・同志社大学名誉教授の新刊『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか 身近な疑問からみる日本型組織の「無駄の構造」』(日本経済新聞出版)から抜粋します。
「目立つ」という過ち
大学で新入生を迎える最初の授業。そこには毎年、春の穏やかな陽光とは対照的な、教室特有のピリピリとした緊張感が漂っている。
つい数週間前まで高校生だった彼らは、新しい環境で「ここではどう振る舞うのが正解か」を測りかねている。隣に座る見知らぬ他者を友人候補として見る前に、まず「自分を値踏みする相手」として意識し、互いに視線を交わすことすらためらう、凍りついたような様子見の状態だ。
この重苦しい沈黙を破り、勇気を持って挙手し、自らの意見を述べる学生が現れる。その瞬間こそが、クラスの運命を左右する「分水嶺」(ぶんすいれい)である。もし、その最初の一人の発言に呼応するように「私もそう思います」「別の視点では……」と続く者が数人現れれば、そのクラスは以後、活発な議論が飛び交う、風通しの良い学びの場へと育っていく。
しかし、現実は非情だ。圧倒的に多いのは、勇気を出して発言した学生に対して、周囲が「シラッ」とした冷ややかな視線を送り、教員までもがその熱量を持て余してしまうケースだ。
教室内には「あいつ、最初から飛ばしているな」「意識高い系かよ」という無言の嘲笑が広がり、発言した本人は、自分が犯した「目立つ」という過ちの大きさを肌身で知ることになる。
一度この「浮いた空気」を経験すると、学生たちは二度と自発的な発言をしなくなる。「ここでは、余計なことをせず黙っておくことこそが賢明なのだ」と、教室での処世術を学習するのである。
新入社員の目の輝きが消失するまで
職場という名の共同体もまた、このパターンの延長線上にある。
入社説明会で語られたのは、胸の躍るような輝かしいビジョンだった。
ホームページに並ぶ「自由闊達(かったつ)」「若手の挑戦を歓迎」という魅力的なキャッチコピー。それらを真に受けた新入社員は、希望に胸を膨らませて配属先へと飛び込んでいく。
当初、職場は温かな歓迎ムードに包まれている。上司や先輩たちは優しく、実務の手順だけでなく、ランチの誘いや飲み会、さらには「うちの部署ではこう動くのが暗黙のルールなんだ」といった職場の作法についても、懇切丁寧に指導してくれる。新人は、自分がこの温かな共同体の一員として受け入れられたことに、安堵と喜びを感じる。
ところが、いざ実務に就いて、「もっと効率的な方法があるのではないですか」と既存のプロセスに疑問を呈したり、研修で学んだ最新のフレームワークを試そうとしたりすると、空気は一変する。
「面白いアイデアだけど、うちには前例がないからね」
「君の言うことは正しいが、課長がどう言うか気になるね。まずは今のやり方を完璧に覚えてからにしようか」
こうしたやんわりとした拒絶が繰り返されるうちに、若手社員は、自分が職場の平穏な秩序を乱す「不純な異物」になりつつあることに気づく。提案や企画がことごとく「時期尚早」や「組織の調和」という名目のもとに葬り去られていく。
入社から3カ月もたてば、あれほど爛々(らんらん)と輝いていた新人の目は曇り、言動は驚くほど周囲に同化していく。尖っていた角を自ら折り、鋭かった牙を抜かれた若手は、こうして「使い勝手の良い、目立たない存在」へと、わずか100日足らずで変貌を遂げる。
これを私は、日本の組織が持つ「同調圧力という名の自動処理装置」の威力だと考えている。

中途ホープが個性を失う瞬間
これは、中途採用の転職組にとっても他人事ではない。入社当初、彼らは「この会社は前の会社と違う。風通しが良くて、やりたいことができそうだ」という解放感を抱く。
ところが、しばらくたつと、よそ者の自分だけが微妙に浮いていることに気づき始める。「やりたいことができる」と感じたのは、単に周囲がまだお客様扱いをして距離を置いていただけだったのだ。
そこから数カ月、周囲との心理的な距離が縮まり、すっかり職場に溶け込んでいる自分に気づく。それは本人が適応した証拠と言えば聞こえは良いが、見方を変えれば、組織が強いる「凡庸さという名の仮面」が肌に馴染(なじ)んでしまい、個性を失ったことの裏返しでもある。
企業にとって人材こそ最重要の資源と言われるなか、各社がこぞって「優秀な新人」「優秀な中途」を確保しようとしている。
しかし5年、10年たって、入社時にあれほど期待された「優秀な人材」が実績をあげたという話は聞かれない。それどころか、多くの場合、彼・彼女らはいつしか「普通の人材」になり、他の社員に埋もれてしまっているのが現実だ。
背景には、こうした同化のメカニズムが働いているのである。
自由なベンチャーが「大企業のミニチュア」に?
この「若手の牙を抜く構造」は、伝統的な大企業や役所に特有の病理だと思われがちだが、実は対極にあると思われているベンチャー企業も例外ではない。
創業当初は、文字通り自由闊達で、深夜まで夢や戦略について熱い議論が交わされていた組織であっても、社員数が30人、50人と増えていくにつれ、「組織の壁」という大きな曲がり角を迎えることになる。
経営者が全社員と直接対話することが物理的に不可能になると、組織を運営するためには「階層」と「ルール」が必要になる。その際、多くの経営者が無意識のうちに手本にするのは、皮肉にも自分がかつて「こんな古い組織にはいられない」と飛び出したはずの、あの「古き良き日本企業」のモデルなのである。
結果として、躍動感にあふれていたはずのベンチャー企業の中に、奇妙な「大企業のミニチュア版」が誕生する。重層的な稟議(りんぎ)のフロー、過剰な社内手続きの整備、会議室の序列を重んじる座席表……。
公式な制度の枠組みが整うにつれ、暗黙の人間関係や「空気を読む」「忖度する」といった、かつて嫌悪していたはずの共同体的な体質までもが移植されていく。こうして、かつての躍動感は失われ、創業メンバーさえもが、挑戦者としての顔を捨てて「組織人」として互いの顔色をうかがい始めるようになる。経営者の目が届かないところで、かつての自由な議論は「調整」へと置き換わっていくのだ。
太田肇著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)
