なぜ今、企業が「人権対応」に取り組まないといけないのか? その理由を指し示すデータがある。日本の全産業を合計した2019年の売上高は10年前に比べるとあまり変わっていないが、純利益は約5倍に拡大した。この数字が意味するのは、「日本の企業はこの10年でコスト削減しかやってこなかった」ということだ。世界中から安い調達先を探して不健全な「やせ型」サプライチェーンを築き、従業員の給料も上げず、多くの「犠牲」のもとに利益を生み出してきた。そのため、自社やサプライチェーンの至るところに「人権リスク」が潜んでいる恐れがある。日本企業が抱える「人権リスク」の現状と課題を、企業の人権対応に詳しい羽生田慶介・オウルズコンサルティンググループ代表の著書 『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』 から一部抜粋して紹介します。その第2回。
バブル期「モーレツ社員」の生産性は決して高くなかった
1990年ごろ、栄養ドリンク「リゲイン」のCMソングのキャッチコピー「24時間戦えますか」が社会現象になった。そこに世相が現れていたように、若いころ「モーレツ社員」として駆け抜けた50代、60代の経営層は、「ビジネスと人権(人権への配慮)」と聞くと「甘え」のように誤解した捉え方をするケースが少なくない。
だが実態は、「モーレツ社員」が活躍した20世紀の時代から、日本の労働生産性は決して高くなかった。効率を見る「時間労働生産性」はもちろん、長時間労働のパワーが発揮されうる「就業者1人当たり労働生産性」においても、日本は1970年からずっとOECD加盟国38カ国の中で20位前後にとどまっている。これまでの働き方を続けても、産業競争力や企業の業績向上につながるわけではないことをまず理解すべきだ。
人権の大切さが常に真理であるのと同じように、企業にとって利益を出し続ける必要性があることも不変だ。だが、「正しい働き方」は時代背景に応じて変わる。
働き方改革のきっかけとなった電通過労自殺問題
「電通は従業員手帳から『鬼十則』を直ちに削除すべきです」――これは、大手広告代理店の電通で2015年に起きた女性社員の過労自殺問題で遺族代理人を務めた弁護士の日本記者クラブでの発言だ。
電通「鬼十則」とは、「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは」「周囲を引きずり回せ、引きずると引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる」など10項目の社員の行動規範だ。強烈な文言で社員を鼓舞するこの「鬼十則」がつくられたのは1951年。第2次世界大戦直後の1947年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって公職追放された前社長の後任として第4代社長に就いた吉田秀雄氏の哲学を言葉にしたものだ。
だが、経済ステージや社会背景の変化とともに、適する働き方は変わる。過労自殺に追い込まれた女性社員の遺族代理人弁護士の発言にもあるように、「鬼十則」は時代に合わない行動規範になった。
電通は2016年に「鬼十則」を社員手帳から削除した。その後、働き方改革を中心とした人権対応に取り組み、2年後の2018年には、残業時間を2016年の月平均26.9時間から9.8時間に改善し、1人当たり平均休暇取得日数は年12.4日から21.4日に増加した。それでも売上高は4.9兆円から5.4兆円に伸長している。働き方を変えることで派生するイノベーションもある。「鬼十則」がなければ生産性が上がらない、ということはないのだ。
この10年、企業はコスト削減しかしてこなかった
「米国が人権外交なんて始めたから人権リスクという厄介なアジェンダが生まれた。日本の産業には問題がないのに」や「もともとウチはサプライチェーン管理をしっかりやっている」と考えている経営者やビジネスリーダーに、ぜひ見てほしいデータがある。経済産業省も憂慮するこの産業実態は、日本企業の病理を語るのに欠かせない。日本企業の行きすぎた「筋肉質」サプライチェーン信仰だ。これが人権リスクを見えなくしてきた可能性がある。
下の図表は、新型コロナウイルスが感染拡大する前の10年(2009年から2019年)における日本国内の全産業の売上高と営業利益と純利益の推移だ。
このグラフから読み取るべきメッセージは至って単純。この10年、日本企業は「売り上げは伸びていないのに、利益は5倍にも増大した」ことだ。正確には、2019年の全産業の売上高は1482兆円で、10年前(1386兆円)の1.1倍にしかなっていないが、純利益は同期間で9.2兆円から45.0兆円と4.9倍に拡大している。
売り上げが増えず利益が上がる理由はひとつしかない。コストが削減されたからだ。はっきり言おう。この10年間、企業もコンサルティング会社も、総体としてみれば「コスト削減」しか実現できなかった。
不健康な「やせ型」サプライチェーン
製造業で最も大きなコストである材料の調達原価を下げようとすると、何が起きるか。簡単に言えば、サプライチェーンに対する締めつけの強化だ。汎用品であれば相見積もりによる価格プレッシャーを強め、サプライヤー(部品・材料の納入事業者)に対して「もっと安くならないの?」「他の会社に切り替えちゃうよ」の要求を延々と繰り返す。
追い詰められたサプライヤーは、要求された価格水準を満たすためになりふり構わず自身のコスト削減を追求する。資本関係のない途上国の現地の二次・三次サプライヤーにおける「人権」など気にする余裕がない――これが不健康な「やせ型」サプライチェーンの姿だ。
一方、サービス業であれば、コスト削減の最大のターゲットは売上高の40~60%を占める人件費だ。OECDの調査によれば、日本の年間平均賃金は、過去20年の平均で見てたったの0.4%しか上昇していない。また、コロナ前の10年間(2009~2019年)も、ほとんど上昇しなかった。
過剰なダイエットで免疫力の落ちている日本企業
平均賃金額を比較すると、日本は今やG7最低水準に定着しただけでなく、2015年には韓国にも抜かれた(下図)。こうした低水準の賃金環境と、低い労働生産性の日本の企業・産業が、ハラスメントや強制的な転勤などの人権リスクと無関係であるはずがない。
「売り上げは伸びないのに利益は5倍増」を実現した、行きすぎた「やせ型」サプライチェーンを持つ日本の産業界は、極めて不健康な体質になっている可能性が高い。過剰なダイエットで健康に必要な脂肪も削り取った状態が続けば、免疫力が低下し大病を招く。「コスト削減」「効率化」に成功して利益を出している企業ほど、10年前にはなかった人権リスクが生まれている可能性がある。

(第3回に続く)
今ほどビジネスに「人権」の視点が問われている時代はありません。セクハラ・パワハラ・マタハラ、長時間労働などから、サプライチェーン上流の原材料採掘や海外製造委託先企業での強制労働・児童労働、さらには広告での差別的表現、AI開発時の差別的傾向、SNSの発信内容など、「人権」に配慮すべき領域は非常に幅広く、本業に直結している。もはや、法務部や人事部だけに任せておくものではなく、事業に携わるすべてのビジネスパーソンに、人権への理解と対応力が求められています。この一冊でその基本が学べます。
羽生田慶介(著)/日経BP/2200円(税込み)