『藍を継ぐ海』(新潮社)で第172回直木賞を受賞した伊与原新さん。東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻、富山大学で助教を務めた経験を持つ。今も科学に関する題材を扱う小説を数多く著す伊与原さんにとって、研究者としてのキャリアはどのように作品づくりに影響しているのか。『藍を継ぐ海』所収の小説を例に聞いた。
作家
直木賞受賞作『 藍を継ぐ海 』は、エンターテインメントとサイエンスをかけ合わせた新感覚の小説として多くの人に読まれています。執筆時にはどんな意図で書いていたのですか?
小説を書くときには、あまり「これを伝えたい」という明確な目的を持ち合わせているわけではありません。短編集『藍を継ぐ海』に収録した一編一編を書くときにも、最初にあったのは「この題材を書いてみたい」という純粋な好奇心でした。
例えば最初に書いた『祈りの破片』は、戦時中の広島に実在した地質学者・長岡省吾さんの存在を知ったことがきっかけです。原爆が落ちた直後、誰に命じられるでもなく、変質した石や瓦を一人で収集した長岡さんは後の調査研究に多大な貢献をした人です。「もしも長崎に、彼のような人物がいたら」と想像して、物語を膨らませていきました。
とはいえ、題材だけでは物語として十分ではありません。やはり読者に感情移入してもらうには、登場人物たちの人生や悩みを描くことが大切だという編集者の意見も取り入れています。人物たちの思いや葛藤を重ね合わせながら、構成を考えていきました。
謎解きの要素もあり、見事に引き込まれる感覚がありました。
これまでの短編集『 月まで三キロ 』『 八月の銀の雪 』(いずれも新潮文庫)には、悲しさを含んだ話が多かったので、今回は少し方向を変えたいという気持ちもありました。
例えば『狼犬ダイアリー』では、「もしニホンオオカミの血統がどこかに残っていたら面白い」という発想から出発して、その視点で物語を作っていきました。隕石(いんせき)も昔から興味のある題材でしたし、ウミガメも同様です。いずれも、自分の中でいつか書いてみたいと温めていたテーマばかりです。
舞台については、結果的に地方が多くなりました。最初は意識していなかったのですが、書いているうちに編集者と「地方、地方と続いているので、いっそ地方で統一しようか」という話になり、あえて都会を避ける方向でまとめていきました。実際に調べながら書いてみると、土地に根付いた歴史や文化が物語に厚みを与え、発想を広げてくれる感覚がありましたね。
作品を通じて、「こんなに豊かな文化が日本の各地に隠されているのか」という驚きを得た読者も多いのではないでしょうか。
ありがたいことに、作品を読んだ地元の方々がとても喜んでくださって、それはうれしい反響でした。ただ、僕自身の感覚としては、土地に物語を与えたというより、むしろ土地の力を借りて書かせてもらったという気持ちのほうが強いんです。その土地の自然、歴史、文化がなければ、物語は成立しませんでした。
『星隕つ駅逓(ほしおつえきてい)』という作品の舞台に北海道・遠軽町を選んだのは、「隕石を落とすなら原野がいいだろう」という単純な理由だったのですが、土地の歴史を調べるうちに北海道開拓にも重要な役割を果たした北海道独自の「駅逓(えきてい)」を知り、さらにアイヌ文化の背景に触れるうちに、物語の構造はより重層的になっていきました。現地に詳しい友人がいたというのも幸運だったのですが、あの作品は、まさに遠軽という土地が導いてくれたものだったと感じています。
「知らない」ことが、物語を書く動機になる
リサーチにはどんな手法を?
現地に行くこともありますが、基本的には文献を読んで調べます。必要があれば学術論文にも当たります。今は図書館のネットサービスも充実していて、たいていの情報は調べることができますが、やはり現地に足を運び、人と出会うことでしかたどり着けない情報があるのも事実です。
中でも、特に印象に残っているのは『夢化けの島』を書くために訪問した見島のリサーチです。それまで萩焼についてはまったく知識がなく、見島の土が萩焼に使われていることも知りませんでした。まずは現地の地質や萩焼に詳しい方を探しました。そこで出会ったのが、萩ジオパーク推進協議会の専門員・白井孝明さんです。地質にも萩焼にも詳しくて、しかも顔が広い。物語のカギを握る林泥平という人物の存在を教えてくれたのも白井さんでしたし、見島の歴史を記録した古文書の写しなど、自力では絶対にたどり着けないような資料を提供してくださる方もご紹介いただきました。
こうしたキーパーソンとの出会いが、物語の深さを支えてくれることは少なくありません。白井さんも、作品が完成して受賞したときには本当に喜んでくださいました。現地に実際に足を運んだ人たちが、「この作品を読んで見島に行ってみたいと思った」と言ってくださるのも、書き手としてはありがたいことです。
丹念なリサーチは、研究者としてのキャリアを経て小説家に転身された伊与原さんならではの創作力だと感じます。
調べるという行為は、僕にとってはとても自然な営みです。大学院では地球惑星科学を専門にしていましたし、研究者として論文を書いたり、調査をしたりという日々を過ごしてきました。その頃の習慣が、今の小説の執筆にも生きているのだと思います。表層的な情報だけではなく、もう一歩深く掘り下げていくことで、初めて見えてくるものがある。それが物語の厚みを生むのだと思っています。
もしも「どこの土地でも、物語が書けますか?」と聞かれたら、僕は「はい」と答えます。というのも、日本中どこにでも、その土地に固有の文化や自然、歴史があるはずだからです。つまり、物語の種は無限に存在するということ。調べれば調べるほど、知らなかったことが出てきて、物語になりうる種がたくさん見つかる。そして知るほどに、物語は膨らんでいく。結局のところ、「知らない」ことこそが、物語を書く動機になるのかもしれません。
取材・文/宮本恵理子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/稲垣純也

