小説が描くフィクションの世界から、自らの価値観を揺さぶる多くの問いかけを受け取ってきた中江有里さん。シリーズ3回目は中江さんが大きな影響を受けた小説と、本と出合うために大切なことを伺いました。
『わたしを離さないで』から受けた問いかけ
たまたま手に取った本の世界から、人生やこれからの社会のあり方について問いを受け取る。これもまた、読書の醍醐味だと思います。私の場合はフィクションの世界から、自分の価値観を揺さぶる重要な問いの数々を受け取ってきました。
例えば、カズオ・イシグロの『 わたしを離さないで 』(ハヤカワepi文庫)。言わずと知れたノーベル文学賞作家による代表作といっていい小説ですが、初めて読んだ時には衝撃を受けました。
「介護人」のキャシーが、「提供者」と呼ばれる人たちの世話をしながら宿舎での共同生活を振り返る回想録。その生活の端々に宿る奇妙さには理由があって、実は「提供者」たちはそれ以外の人々を生かすための道具として生きている。
実際には起こり得ないとは分かっていながらも、もしも現実世界で「クローン人間」との共生が始まったとしたら? クローン人間にも心や感情があるとしたら、果たしてそれは「人」なのか。人間はどこまで自分の存在に対して傲慢になれるのか。私が大きな病気をして目や手を失ったときに、他の誰かを犠牲にしてまで、命を長らえようとするのかどうか。究極の倫理観や死生観を問われる作品です。多くの読者は「介護人」の立場に自分を重ねるのではないかと思いますが、「提供者」として生きる人生だってあり得るわけです。
物語の組み立てとしても非常に重厚で読み応えがありながら、深淵なテーマを突きつける。こうした読書体験を提供できるのも、小説ならでは。多くの言語に翻訳され、映画や舞台になったことからも、このテーマが普遍的であることが分かります。
「はるか先の未来」だった『一九八四年』と現在
同じく、小説ならではの仮想世界で「あるかもしれない未来」を突きつける作品が、ジョージ・オーウェルの『 一九八四年[新訳版] 』(ハヤカワepi文庫)です。
1949年に発表された当時には「はるか先の未来」だった1984年の世界を、極端な全体主義が支配するディストピアとして描いた作品。思想警察によって言動が厳しく統制される社会は、現実社会と隔絶されたフィクションかというと、そうとも言い切れないところがあります。むしろ現在に近いかもしれない。2023年の現代に生きる私たちにとって、1984年は「はるか昔の過去」ですが、決して古びることのない未来予測として読むことができます。
未来予測を提言する専門家はいろいろな立場の方がいますが、オーウェルの小説家ならではの視点に私は信憑性があると感じます。
数値に惑われることなく想像力というクリエイティビティで未来の姿を描くわけですが、だからといって荒唐無稽にはならないのは、小説を組み立てるのにはそれなりの説得力のあるロジックの積層が必要だから。物語を成立させるために緻密な調和が不可欠になるから、結果的に隙のない予測になるのだと思います。
自らの責任と役割を考え直す『獣の奏者』
SFのほかファンタジーも、現実世界に置き換えた問いを与えてくれるので好きです。
一つ、作品を挙げるとしたら、上橋菜穂子さんの『
獣の奏者
』(全5冊シリーズ、講談社文庫=リンクは獣の奏者 1 闘蛇編)。上橋さんが描くファンタジーは、ファンタジーでありながら現実世界を想起させるものが多く、特にこの作品は児童文学として親しまれながら大人も楽しめるストーリーです。
主人公の少女エリンは、村の戦士を運ぶ「闘蛇」を飼い慣らす特殊能力を持つ母親の下に生まれ育ちます。しかし、闘蛇を死なせた罪に問われた母とは別れることに。エリンは母と同じ「獣ノ医術師」を志し、数々の苦難を乗り越えていきますが、特別な力を備えた者が背負う責任も引き受けていく。
長い物語の核には、「定められた宿命をどう生きるか」「担った責任をどう全うしていくか」という普遍のテーマがあると私は感じました。
社会の中で生きる私たちもまた、それぞれに何かしらの責任を背負っていますよね。どんな仕事、どんな立場においても、自分に課せられた役割の責任をどう受け止めて、答えを出していくのかという問いは生まれます。もしもお子さんがいる方なら、「この子が成人するまで、どう向き合っていくか」という責任を感じるものだと思いますし。
私が今、引き受けている責任とはなんだろう? その責任に対して、私はどう応えていくべきだろうか? 『獣の奏者』を読み返すたび、そんな問いを反芻します。
ブックリストの検索よりも大切なこと
あらためて、こんなふうに本を読んで感じたこと、受け取ったことを言葉にして表現することを仕事にできるのはありがたいです。
人に伝わるようにするためには、自分が理解できていないといけないので、言語化するだけで自分の意識への働きかけになります。長い文章にしなくても、SNSでちょっとつぶやくだけでも十分な振り返りになると思います。
読んで感銘を受けた本のなかの何が響いたのかを見つめることで、これから自分は何に出合いたいのか、どんなテーマを深めたいのかというアンテナが磨かれます。やみくもにブックリストを検索するよりも、自分の心を観察することが大切。それがまた次の「能動的な読書」につながることでしょう。
たまたま寄り道した路地で、たまたま見つけたお店の看板から思わぬインスピレーションを得る。そんな偶然の出合いの妙が、本にはたくさんあります。
そして、偶然の出合いを引き起こす第一歩を踏めるのは自分だけ。「能動的な読書」の先に、「人生を変えるかもしれない本」との出合いも期待できます。答え合わせは何年も先かもしれない。長い時間をかけて味わえる読書を、これからも楽しんでいきたいです。
取材・文/宮本恵理子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集部) ヘアメイク/丸山智美 写真/鈴木愛子





