アウトプットがぱったりと枯れてしまう人がいる一方で、長期間にわたってアウトプットの質・量を維持できる人がいます。この違いはどこから生まれてくるのでしょうか。外資系コンサルとして活躍し、今は独立研究者として注目を集める山口周氏の知的生産術を公開した日経ビジネス人文庫『知的戦闘力を高める 独学の技法』から抜粋・再構成してお届けします。

「インプットしまくる時期」が必要

 「読書は短期目線でいい」という指摘を別の言葉で表現すれば、「無目的なインプットこそが大事」ということになります。なぜかというと「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心要の時期にアウトプットできなくなる」からです。

 どういうことでしょうか。まずは、基本的な前提から確認しておきましょう。それは「アウトプットとインプットの量は長期的には一致する」という前提です。これは要するに「人生全体で見てみれば、アウトプットの量とインプットの量は同じだ」ということです。アウトプットする人はインプットしている。逆にいえば、インプットせずにアウトプットしていれば、どこかで枯れてしまうという話で、実に当たり前の前提です。

 アウトプットがぱったりと枯れてしまう人がいる一方で、長期間にわたってアウトプットの質・量を維持できる人がいる。この違いはどこから生まれてくるのでしょうか? 両者のキャリアや経歴を比較してみて気づくのが、「アウトプットし続けている人は、人生のどこかでインプットし続けている時期がある」ということです。

 例えば齋藤孝氏の例で言えば、大学院修士時代から博士課程を終えた後、いわゆるポスドクの時期まで、ひたすらインプットしまくっている時期があります。これは内田樹氏にしても同様で、継続的に質の高いアウトプットを出し続けている人に共通しているのは、「人生のどこかでひたすらインプットし続けている時期がある」ということです。

 この事実から得られる洞察は次の通りとなります。すなわち、よくいわれる「インプットはアウトプットが必要になったときにすればいい」「アウトプットの目安がついていないインプットは非効率」という意見は、実は非常にミスリーディングで、逆にいえば、無目的に興味のおもむくままに、ひたすらインプットする時期がないと、長い期間にわたって継続するような真に強力でユニークな知的戦闘力は身に付けられない、ということです。

必要になったときに勉強しても遅い

 どうしてこういうことになるのでしょうか。これを経済学的に考えてみれば、いわゆる「機会費用の問題」として整理できます。例えばアウトプットが一時的にウケて、次々と仕事が舞い込んだとしましょう。そういう状況でインプットのために勉強するのは、機会費用が大きい。なぜならば、持っている時間を執筆や講演に使えば、それがお金になるのに、インプットのための勉強は、それ自体ではお金を生み出さないからです。つまり、実際にアウトプットが求められる段階になってからインプットの勉強をするというのは、非常に機会費用が大きいわけです。

 では、機会費用を小さくするにはどうすればいいか。答えは一つしかありません。まだ誰からも「本を書いてほしい」「アドバイスをしてほしい」「手伝ってほしい」といわれていない時期、時間が腐るほどあるという時期、そういう時期に思いっきりインプットをする。これしかありません。

 これが世の中で「よくいわれる勉強法」のアンチテーゼになっていることに気づいたでしょうか? 一般に、ビジネスパーソンの勉強法に関しては「いずれ必要になったら、そのときに必要な勉強をすればいい」というものです。こういう意見をいう人は多いし、さらにいえば合理的にも聞こえます。しかしこれは、やっぱりダメだろうと思うのです。

 「アウトプットが必要になったとき」というのは、もう「舞台に立て」といわれているわけですから、そこで勉強をしているようでは、どうしても付け焼き刃的な知識の表面的なインプットにならざるを得ません。

 結局、どこかで聞いたような話を、自分のユニークな体験を交えて語るという、よくあるビジネス書のスタイルにならざるを得ないわけで、その人ならではのユニークな切り口とか、あるいは他のジャンルの知見と組み合わせた独自のソリューションとかというのは、どうしても出しにくいということになります。

人生には、インプットに励む時期も必要(写真:kazoka303030/stock.adobe.com)
人生には、インプットに励む時期も必要(写真:kazoka303030/stock.adobe.com)
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 人生において、他者からアウトプットを求められていない時期、インプットのための機会費用の小さい時期にしか、大量かつ無節操なインプットはできません。

 そして、いざ他者からアウトプットを求められる時期になって、その人らしいユニークな知的アウトプットを生み出せるかどうかは、この無節操なインプットの蓄積によると考えれば、若いときの無目的で無節操な勉強こそ、継続的に知的生産力を維持するために重要だ、ということになります。

心地良いインプットに用心する

 心地良いインプットというのは「共感できる」「賛成できる」インプットということです。こういうインプットは、文字通り「心地良い」ので、注意しないとこういう種類のインプットばかりになってしまうのですが、これはとても危ない。なぜかというと、こういうインプットばかりしているとバカになるからです。

 「共感できる」「賛成できる」インプットばかりを積み重ねているということは、同質性の高い意見や論考ばかりに触れているということです。こういった知識を積み重ねると知的ストックが極端にかたよって独善に陥る可能性があります。

 同質性の高い人たちが集まると、意思決定のクオリティーが著しく低下する傾向があることを示したのは心理学者のアーヴィング・ジャニスでした。ジャニスは、ピッグス湾事件やヴェトナム戦争などの「非常に聡明(そうめい)な人々が集まって、極めて貧弱な意思決定をしてしまった」という事例を数多く取り上げ、そこに発生している「意思決定品質を破壊するメカニズム」を「集団浅慮=グループシンク」と名付けました。

 このジャニスの研究以外にも、多くの組織論の研究が、多様な意見のぶつかり合いによる認知的な不協和がクオリティーの高い意思決定につながることを示しています。要するに、どんなに知的水準の高い人でも「似たような意見や志向」を持った人たちが集まると知的生産のクオリティーは低下してしまうということです。これは個人の知的ストックにおいてもまったく同様だといえます。

 肯定と否定が、より高い次元では同じものだと指摘したのはジグムント・フロイトでした。強い肯定=愛情は、強い否定=憎悪と紙一重の関係であり、双方ともに心理学的には転移が発生している状態として整理できます。

 この状態の反対は「無関心」、つまり転移の解除ということになります。本を読んでいて強い反感や嫌悪感を覚えるというとき、その情報は私たちの中にある何かと共鳴しています。そういえば、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』の中にこんなセリフがありますね。

 ある人間を憎むとすると、そのときわたしたちは、自分自身の中に巣くっている何かを、その人間の像の中で憎んでいるわけだ。自分自身の中にないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの。


 強い怒りや嫌悪感は、自分たちの中にある「何らかの痛み」を指し示している可能性があります。例えば、キャリアカウンセリングをする際、「好きなもの」よりも「嫌いなもの」を聞いた方が、その人のパーソナリティーの深い部分に入り込めることが多い。今までの人生でもっとも怒りを感じたことを思い出し、なぜ、それほどまでに強い怒りを感じたのかを考えてみるわけです。恐らく、それは自分にとって一番大事なものが蹂躙(じゅうりん)されたと感じたからです。

 怒りというネガティブな感情を反射板にして、自分が一番大事にしているものにそっと耳を澄ます。強い反感や嫌悪感を覚えるときは、それもメモしておきましょう。後でいろいろな気づきにつながることになります。

日経ビジネス人文庫
知的戦闘力を高める 独学の技法
外資系コンサルとして活躍し、今は独立研究者として注目を集める著者の、骨太でしなやかな知性を身に付ける、武器としての知的生産術。戦略からインプット、抽象化・構造化、ストックまで、知識を「使いこなす」最強の独学システムを公開。

山口周著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)