かつては、科学的な偉大な発見によって、世界の謎はすべて説明できるようになると思われてきました。しかし、20世紀ごろから相次いだビッグ・バンや人間原理をはじめとする発見によって、今度は「科学+偶然だけでは説明できない何か」が見えてきたとITエンジニアのミシェル=イヴ・ボロレ氏と起業家のオリヴィエ・ボナシー氏は指摘します。その、科学と神に関する価値観の変遷の歴史を、フランスで刊行され25万部の大ベストセラーとなった書籍の翻訳書『神と科学 世界は「何」を信じてきたのか』(鳥取絹子訳、日経BP)から抜粋してお届けします。
「唯物論」:絶対的地位からの凋落(ちょうらく)
こうして20世紀の半ばまでに、人間の理性は精神面から切り離された3つの分析可能な領域に閉じこめられていた。マルクス主義・フロイト主義・科学主義である。しかし、これらは最終的にほころびが出始め、やがて全面的な崩壊に追いこまれることになる。
- 20世紀前半、量子力学と、その基本原理である不確定性原理[* 原子や素粒子の世界では、正確な位置と運動量を同時に知ることは不可能とする原理]が実証されたことにより、「宇宙は単純かつ機械論的で、決定論的である」という考えは否定された。
- 1991年、ソ連の崩壊と、アジアの共産圏でマルクス主義の経済理論が放棄されたことで、マルクス主義の唯物論は誤りだったことが世界に証明された。
ソ連の崩壊によって、それまでの経済的・政治的・人間的な恐怖体制と、「グラーグ」と呼ばれていた強制労働機関での数百万人の死者の存在が明らかになった。 - この幻滅にほぼ付随して、フロイト理論が問い直されることになった。2005年に出版された『精神分析黒書』では、20世紀半ばの知の偶像フロイトの生涯と失墜を批判的に総括している。しかし、フロイトは栄光の座からすべり落ちたものの、彼が生み出したもの、特に寛容な教育と性の自由の概念は、その後も残っている。これらの概念が、現代の西洋を大きく形づくってきた。
唯物主義の3本の知的支柱が同時期に崩壊したからといって、すぐに信仰が復活したわけではない。それでも唯物主義の思考体系は、その前の宇宙科学による発見も加わって、かなり弱体化していた。
これらの新発見は創造神の存在を示す科学的証拠として提示されたのだが、一方で1930年代から長く反対の立場を貫いてきた無神論の科学者たちは悪意をもってそれらを受け止めた。
そこで本書では、一部の唯物論者たちが行った、さまざまな形の抵抗も紹介する。ビッグ・バン理論を阻止するための投機的な代替理論(ビッグ・クランチ[* 予想される宇宙終焉の1つ]や多元宇宙など)から、旧ソ連やドイツ、中国での多くの学者に対して行われた国外追放、さらには処刑などだ。この章は、自らの信念とは異なる科学的理論を受け入れるという人間の能力の限界について、多くを物語っている。
知性にまつわる歴史を振り返るこの作業は、本書の考察を、歴史的・イデオロギー的な文脈に位置づけるために必要なことだ。
信仰者が、ガリレオやダーウィンを受け入れ難かったとしても、本質的には相容れないものではなかった。ところが、唯物論者が宇宙の熱的死や微調整を受け入れるのは、それ以上に難しいことだった。というのも、これらの発見を事実として受け入れるためには、思考を単にアップデートするだけでなく、自らの内的世界を根本から問い直す必要に迫られたからだ。
「真実」と「感情」が食い違ったとき、人はどうするか?
ある1つの理論を受け入れられるかどうかは、その理論を裏付ける科学的で合理的な証拠の有無だけでなく、その理論に対して抱く感情にも左右される。
例えば現在、感情的にニュートラルな科学のテーマとして挙げられるのは、恐竜絶滅の原因、月の起源、地球上の水の起源、ネアンデルタール人の突然の絶滅などで、科学者たちが異論や反論を掲げて議論することはあっても、結論は広く受け入れられている。なぜなら、これらのテーマには感情が入り込む余地がないからである。
しかし、例えば地球温暖化や環境問題、核エネルギーの利点、マルクス経済など、テーマがデリケートで政治色のついたものになると、いくら科学的であっても、知性をもって自由に考えるのは難しい。というのも、政治的選択や個人的な利益は、理性や感情と干渉し合うからだ。
この現象は、テーマが「創造者という存在」「宇宙の起源」になるといっそう激しくなる。これらのテーマになると感情がいつにも増して強く絡んでくるのは、単なる知識の問題ではなく、私たちの人生の問題だからだ。仮に研究の結果、「人間は創造主による被造物にすぎない」ということを認めなければならなくなったとすれば、大半の人は自らの自律性という基本的な問題を問い直さなければならなくなる。
多くの人にとっては、自由と自律、何事も自分で決断し神も支配者も持ちたくないという欲望は、何にも勝るものである。そんな人々の心の深部の自己は、理神論[* 神の存在を合理的に説明しようとする立場]によって攻撃されたと感じ、知的リソースを総動員して自分を守ろうとするだろう。真実を追究するためではなく、それより大事な自己の自律と自由を守るためである。
したがってこうしたテーマに対して多くの人が、深く熟考する代わりに、無関心を決め込むか、愚弄(ぐろう)から軽蔑、さらに暴力まで、予想外の反応を引き起こすとしても、驚くにはあたらない。
このことは、例えばSETI(地球外知的生命体探査)プロジェクトの枠組みで地球外生命体の可能性の探求には多くの時間と資金を費やすのに対し、創造者の仮説の探求にはあまり注意を向けていないことからもよくわかる。もし創造者が本当に存在するとしたら、それは超・地球外生命体なのだろうか? いったい何者なのだろう?
ここで考えてほしいのは、地球外生命体が可能性にとどまっているのに対し、創造者の存在は、これから見ていくように、より真実味があり、可能性が高く、宇宙における活動の痕跡もより明白なことだ。
このようなアンバランスは、恐怖の1つのあらわれであるのは明らかだ。唯物論者の考えでは、はるか遠方の地球外生命体のサインをキャッチすることはたしかに胸をときめかせることだ。しかも、人間が自由な存在で、自らの選択によって人生を決めることができるのかといった実存主義的な疑問を喚起することもない。
一方、創造者あるいは創造神の存在を意識することは内面を大混乱に陥れるリスクがある。
やはり、イデオロギーと感情は、真実を受け入れ世界観に対する革命的な証拠を公平に検討する上で、障壁になる可能性があるのだ。
ところで、本書のはじめに明確にしておきたいのは、この本の目的だ。私たちには特定の宗教を擁護する意図や希望もなければ、ましてや「神」や「創造者」なるものの性質や特性を解き明かしたいという狙いもない。本書の目的はただ1つ、「創造神の存在の可能性」に関連する、合理的で最新の知識を集め、1冊の本にまとめることである。
理性に基づいた議論のために
本書の構成は通常とは異なっており、最新科学と聖書、ポルトガルでの奇跡の物語が一緒になっていることに驚く人もいるだろう。
しかし私たちは、これらすべてが重要なテーマであり、本書の適切な位置に配置されていると確信している。
なぜなら「物質的な宇宙以外は存在しない」となれば必然的に奇跡も存在せず、驚くべき奇跡の物語に対しても、超自然的な仮説に頼らずに何かしらの説明ができなければならないからだ。結果、もしそれとは逆の確認ができれば、唯物論が完全には正しくないことの強力な証拠となる。
結局のところ、神が存在するかしないかは明確な二者択一であり、その答えは私たちとは関係なく存在する。イエスかノーかだ。その答えをこれまで出すことができなかったのは、ただ、私たちの知識不足が障壁になってきたからだ。
しかし、私たちが本書でこれだけ多くの、しかも、異なる分野からの合理的な一連の証拠を明らかにしたことで、おそらくこの問題には、新たな、そして決定打となる見解がもたらされると信じている。
ミシェル=イヴ・ボロレ、オリヴィエ・ボナシー著/鳥取絹子訳/日経BP/3080円(税込み)


