栃木県・小山市立車屋美術館で、画家のモリナガ・ヨウさんの「モリナガ・ヨウのおしごと展 1987-2026 絵本とモケイとじいちゃんと」が開催されています(8月30日まで、アートディレクション・大岡寛典事務所、企画協力・めくるむ)。新聞や雑誌のカットから始まったモリナガさんのおしごとは、1990年代の情報誌の大ブームで波に乗り、そこからモケイ(模型)雑誌、そして1500万個を売り上げた食玩「ワールドタンクミュージアム」の解説書でブレーク、さらに乗り物やスカイツリーの絵本へとつながって、『築地市場 絵でみる魚市場の一日』(小峰書店)で第63回産経児童出版文化賞大賞を受賞。絵本作家としても歩みを進めています。「日経ビジネス電子版」などで何度かインタビューさせていただきましたが、今回は総決算、モリナガさんの人生全体に迫ります。
展示はモリナガさんの少年時代から始まっています。うわ、この頃から情報量が多い。黒板が緑と黒で塗られてますが。
モリナガ・ヨウ(以下、モリナガ): この時は、「こくばんのいろは、みどりでもくろでもないな」と思って重ね塗りしたんでしょうね。運動会の絵は、スピーカーがあってコードがつながっている。スコアが10対10であるということが読み取れる。ディテールまで拾うっていうのが、この頃から出てますね。
ディテールといえば、すさまじいのがこの展覧会のキービジュアルで。これがこう、実物大で展示されています。
アトリエにお邪魔した時に見た光景そのまんま。前に立つとご自宅にワープしたみたい。その印象を生み出すのが、本棚の本から机の上のオブジェクトまで、ありとあらゆるものが精密に描かれていることですね。
モリナガ:展示を見に来た方に、対応表をお配りしています。
モリナガさんは東海林さだおさんのエッセー『ショージ君の青春記』に影響を受けて、早稲田大学に進学して漫画研究会に所属した、と。東海林さだおさん、早稲田の漫研だったんだ。
モリナガ:私は地元の高校の漫研に入っていたんですが、これを17歳の時に読んで、東海林さだおさんと同じように浪人して同じ大学に入りました。夏目房之介さんが週刊朝日に連載していたイラストエッセー「デキゴトロジー」「學問」も大好きで、すごく影響を受けています。
早稲田の漫研では朝日新聞のアルバイトで、高校野球の試合結果を1コマ漫画にして毎回、神宮球場の裏で描いたりしていました。
そこで刺激を受けて、絵を仕事にしようと。
生きていくために絵を描きまくる
モリナガ:ちょっと違います。大学2年ぐらいの時に「将来絵で食えたらいいね」なんて寝言を言ってましたけれど、持ち込みとかもしませんでしたし。ところがその頃、父親の仕事の事情で住んでいた家に居られなくなって、独り暮らしを始めたんですね。そして、学費も払えなくなって。
えっ、そんなご事情が。
モリナガ:突然、学費も、そして毎日の生活費や家賃も自分で稼ぐしかなくなった。そこで、それまでコピー取りなどのアルバイトをしていた雑誌に営業をかけました。あと、遊園地で友達と似顔絵描きをして稼いだ。東京から那須ロイヤルセンター(2000年に廃業)まで片道分の切符を買って、これでお客さんがいなければ昼食も食べられないし東京に帰ることもできない、という背水の陣を敷いて。
描かなきゃ食えない、帰れないと。
モリナガ:でも若かったんで、悲壮感はなかったですね。友達と一緒に「将来笑い話になるだろう」みたいな勢いで。那須ロイヤルセンターって屋内型の遊園地なんですよ。なので、雨が降るとよそに行くはずだった観光バスがこう、どーっと駐車場にやって来る。「やった!」「大漁だ!」と、友達と歓声を上げて、帰りは特急で帰ってきて(笑)。祖父の幼なじみから家賃が2万円の下宿を紹介してもらったので、稼ぎが月10万を超えれば大丈夫なんです。
荒っぽくてエネルギッシュ、ザ・昭和ですねえ。
モリナガ:「朝日ウイークリー」のカットが1点5000円で月2万円、「エイビーロード」(1984年にリクルートが創刊した旅行情報誌、2006年休刊)などでカットを描いて1回6万8000円、などなどで月平均10万円くらいになるじゃないですか。凸凹もあるので、毎晩ビル掃除もしてましたけどね。
リクルートの雑誌は、漫研の友達の紹介で「エイビーロード」で制作のアルバイトをやっていた時に、カットの発注を見て「あ、絵だったら描けますよ」って言って「朝日ウイークリー」の切り抜きを見せたら、「うちは朝日ほど出せませんけど」と仕事をもらったのが始まりです。「今月ハワイ特集やるから、モリナガさん、ちょっとメインビジュアルと、他に4点描いて」とか、そういう形で依頼が来るわけですよね。
そうそう、私も「日経クリック」(1994年創刊、2005年休刊)というパソコン雑誌の編集でしたが、イラストレーターの方にメインビジュアルを描いていただくことはしょっちゅうありました。
モリナガ:そして1990年に「じゃらん」が創刊するんです(2025年休刊)。
うわぁ、懐かしい……。テレビで三宅裕司さんが出演する創刊告知CMをガンガンやっていましたっけ。個人的には、このリクルートの国内旅行情報誌「じゃらん」でモリナガさんの絵と名前を知りました。
モリナガ:24歳の時です。
モリナガさんは、旅館の仲居さんとか、観光バスの運転手さんとか、旅行業界を支える人から聞いた潜入ルポのマンガを描いていましたよね。
モリナガ:あれはライターさんがシナリオを書き、私が絵を付ける、夏目房之介さんの「デキゴトロジー」のような構成でした。
そうか、モリナガさんの視点や言葉じゃなかったんですね。
モリナガ:当時は雑誌の創刊がどんどん続いて、リクルートだけでも「B-ing」(転職情報誌、2008年休刊)、「フロム・エー」(求人情報誌、09年休刊)、他の雑誌からも注文が入るようになってきました。
「面白ければいい」時代の到来
1995年がピークになる、雑誌ブームの到来です。「波が来た」って感じでしたか。
モリナガ:いや、目先の締切に追われて「波にのまれている」感じでしたね。発注も口頭で「今ヒマ? 急ぎなんだけど。締切は明日ね」とか、最短記録は「写真が一点足りない! 取りに行くからヨウさん、1時間半でカラーカット描いてもらえる?」でした(笑)。そうやって稼ぎながら大学を6年生で卒業したわけです。
ちなみに就活とかは?
モリナガ: 落第したんで、就職の案内が来なくなっちゃうんですよ(笑)。
そして、卒業した瞬間に「あれ、俺ってこの先何にも区切りになるイベントがないの?」っていう。フリーで生きていくってそういうことか、と。あの、ざーっという感じがなかなか驚きましたね。
リクルートの情報誌以外で印象的なのは宝島社の「別冊宝島」ですね。展示されている作品を見ても、当時の雑誌の勢いを感じる、というか、ある意味勢いだけというか、面白ければなんでもいいだろう、というか……。
モリナガ:編集者や面白いライターさんたちと「最低ですよね。これやめよう」って言われるギリギリのことをやる感覚といいましょうか。とくに「宝島」や「フロム・エー」「じゃマ~ル」(1995年にリクルートフロムエー、現リクルートジョブズが創刊した個人広告投稿誌。2000年休刊)ではおバカなことをやり続けました。
おバカなことといいますと。
モリナガ:「別冊宝島」だったかな、例えば「男の子がエッチな本を買いに行くにはどんな苦労があるか」とか、それを事細かに書くような、そういう仕事ですね(笑)。そうなると、最初から「こう描いてください」というシナリオがあるわけじゃないので、自分で、調べたり自分の経験を入れたりする、そんな仕事がパラパラ増えてくるわけです。
あ(笑)。この「合体怪獣TOKYO1週間」って何ですか。
モリナガ:当時「TOKYO1週間」という情報雑誌(講談社が1997年に創刊、2010年休刊)が出ることが話題になって、「テレビ番組表からお店の情報から何から、今ある雑誌の売り物をぜんぶ盛り込んだ恐ろしい新雑誌だぞ」という……。
そのまんまだ(笑)。
モリナガ: こちらはフロム・エーの新入生向けフリーペーパーですね。
わっ、経絡図かと思ったら東京都心の路線図だ。面白かったらもう、なんでもありですね。
モリナガ:本当にしょうもないですね。素直に路線図を描いたのではつまらないから、なんかこれ、駅が人体のツボみたいに見えるよね、とか言ってこうなった。駅名もこれ全部レタリングしてますから。手書きですよ。DTPとか素材集なんかないぞっていう。
そうですよね。これがぜんぶコピペ不可の手作業、アナログ仕事。恐ろしい。
モリナガ:どんどんこう、来る玉来る玉をバンバンバンバン自分の引き出しで打ち返していました。例えばこの「ハガキダスト・モラエル」にしても、「はがき出すともらえる」に引っ掛けたフランシスコ・ザビエルのイラスト描いてよ、って依頼が来て、それが描ける絵描きだったわけですよ。錫(しゃく)の十字架を「〒」(郵便局マーク)にしたりして。「なんかすごいエネルギーで描いてくるね」とは言われましたね。どんなむちゃ振りでも対応して、さらにぱっとネタを盛り込むには、それなりの経験とセンスが要る(笑)。鍛えられ方が違う。
ちなみに粘土人形の制作スキルはどこで身に付けたんですか?
モリナガ:人形は絵に悩んでいたときに、なんか引かれたのです。展示してある人形は実績作り的に、頼まれもしないのに「じゃらん」に持ってったんですよ。埋め草に使ってもらえました。じゃらん創刊の頃からやっていました。たまたまフジテレビの「珍プレー好プレー」のタイトルバイトで「今度はクレイアニメにしよう」となって、手伝ったら向いていた! 93年のフジテレビ「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも、クレイモデルの制作を手伝ったりもしましたね。
すごいな、パースが強烈に付いているから本当に特撮のセットに見える。
モリナガ: アナログでこう鉛筆で見ながらパースを調整しては「違うな」とやり直して……。半年以上スケジュールをもらったのに、ただただ街だけを作り続けていました。ウルトラマンもどきとかバルタン星人もどきは一晩で作っちゃったんですが(笑)。とにかく自分の絵で、物(表紙カバー)を充実させたかったんですよね。
効率とかタイパとかコスパとか関係ない時代ならでは。
モリナガ:そして、後で気付いたんですが手前のこの街が、本になった時にぜんぶ帯で隠れるんですよ。
ええっ、さすがにもったいない! 仕事に熱中して我を忘れる方なんでしょうか。
モリナガ:う~ん、仕事によりますね。この頃、フジテレビでは初期のCG制作もやらせていただいたんですが、こちらはまったく性に合わなかったです。
つくづくアナログ型なんですね。
モリナガ:だってCGは自分で描いたものに触れないじゃないですか。いまだに、紙に直接描くお仕事しかしていないんです。「すべて手作り、人力」。これは祖父(美術研究誌『國華』の図版を担当した画家、菊川京三氏)の流れを継いでいるのかも、なんて思います。
会場で見られますが、おじいさまは写真印刷のクオリティーがまだまだだった時代、美術誌のために精密な版画で複製画を創られていたんですよね。
モリナガ:原画を線描で写し取って、元の絵とまったく同じ彩色で版下絵をつくり、それを木版画にする。色の数だけ版が必要だし、色をどう分解するかも経験と感覚でやるわけで、大変な仕事をじいちゃんはしていたんだな、とつくづく孫は思います。
「自分の言葉で描ける場所」を手に入れた、と思ったら
会場の年表によりますと、1995年、モリナガさんが29歳の頃から、イラストルポのお仕事が増え始めた、とあります。そしてモリナガさんのイラストルポといえば『東京右往左往』。1996~99年に「じゃらん」で連載されたイラストルポをまとめた本です。
モリナガ:「東京右往左往」が始まった時は「やった」と思いました。言われたカットを描く仕事はとても鍛えられましたが、だんだん「自分の言葉で仕事をしたい」と思うようになってきて。夏目房之介さんの例えで言えば、伝聞から構成する「デキゴトロジー」から、自分の言葉で書く「學問」になる。それができたのが「東京右往左往」なんですね。でも、本にしようとした時にどの出版社からも「これは東京でしか売れない」と言われて(笑)。14社目でやっと「出しましょう」と言ってもらえました。
でも、考えてみるとライターさんの文章を絵に構成していくお仕事で身に付いた技術もありますね。ライターさんのシナリオを絵にするに当たって、自分で勝手に文字を刻んだり削ったりしてリズムを作るようになったんです。そうすると読みやすくなって、変な面白みが生まれてくる。じゃらんは7年間やったのかな。人の文章を基にして、絵にする時の編集のリズムみたいなのを自分で作っちゃったんですね。
それはご自身でイラストルポを描く時にも?
モリナガ:ええ、役に立っていると思います。ここから絵本を描くようになるまでにはまだまだいろいろありましたが、雑誌で鍛えられた反射神経やスキルは、今もずっと生きてます。
「東京右往左往」以降、自分の言葉とイラストで描くルポ記事の仕事が増えて、憧れていた「學問」のような雑誌でのコラム連載ができた。モリナガさんの少年時代からの夢がかなったわけですよね。
モリナガ:そうですね、実際「NAVI」(1984年に二玄社が創刊した自動車雑誌)の連載を始めた時はもう僕、「これでイラスト描きの仕事としては上がりだな」と思ったくらいですから。
自分の言葉とイラストで、雑誌に定期連載のコラムを持つ人になった。でも、雑誌ブームは95年を頂点に、ネットの登場で退潮に転じて。
モリナガ:そうしたらNAVIが潰れる(2010年)っていう……。後から振り返るとモリナガは、雑誌のバブルの末期から雑誌消滅の時代に、雑誌で生きてきた人間なんですよ。だから、バラバラバラバラバラバラ潰れていくのを「ええっ」っていう感じで見ていました。
(次回に続く)













