「やめる」という言葉には、ネガティブな印象がつきまとう。「あきらめる」「断念する」「失う」。しかし本当にそうだろうか? 多くの人は人生に「埋没(サンク)コスト」を抱えている。それは「せっかく◯◯したのだから」という言葉で表すことができる思考や行動パターンのことだ。今回、 『「やめる」という選択』 の著者で、2020年に日本マイクロソフトを卒業した澤円氏と、 『逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知』 の著者で、一橋ビジネススクールの楠木建教授に、「やめる」ことの戦略的な側面について語ってもらった。前編のテーマは、「やめることの難しさ」について。
僕たちは本能的に「思考を節約」するようにできている
澤円(以下、澤):最近、いろいろな企業と関わることが増えていて、歴史のある会社や上場企業の社員の方からコンサルタントとして話を聞くこともあるのですが、すると中には、「うちの会社は古い体質で」「うちは堅いんで」という人が少なからずいます。「うち」という言葉で自社をくくって、かつそれをエクスキューズにするという図式です。
こんなやり取りになると僕は、「あなたは、それをよしとしているんですか?」と聞くんですが、すると、「そんなことを聞かれるとは思っていませんでした」という反応が返ってくることが多い。「うち」、つまり自社が「古い、堅い」ということに完全適応してしまっていて、考えないで済む状態になっているんです。
楠木建氏(以下、楠木):なるほど。今、澤さんは歴史ある会社や上場企業とおっしゃいましたが、実は同じようなことは、いわゆるベンチャーみたいなところにもあると思います。「俺たちはスタートアップなんで」と、ひとくくりにする。

一橋ビジネススクール教授
1989年一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部助教授および同大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授などを経て、2010年から現職。専攻は競争戦略とイノベーション。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)は「ビジネス書大賞2011大賞」を受賞し、本格的経営書として異例のベストセラーとなった。『逆・タイムマシン経営論』(杉浦泰氏と共著、日経BP)など著書多数。
澤:まさに、僕が気になっているのはそこです。多くの人は、適当にくくられて決めつけられると、カチンときます。例えば「ゆとり世代って、数字に弱いよね」みたいに、とにかく「適当にくくって主語をでかくして、雑にぶん殴る」と多くの人は怒ります。
楠木:なるほど、確かにそうですね。
澤:ただ一方で、そういった適当なくくりを積極的に受け入れる人が一定数いることが気になっているんです。会社以外にも、「我々はゆとり世代なんで」「Z世代なんで」って。「団塊の世代なんで」というのもそうですね。
こういった適当なくくりで、思考停止している人が増えているんじゃないかと思うんです。
楠木:「カテゴリー適応」ですよね。つまり「ゆとり世代」というカテゴリーをまず設定して、それで全部をくくってしまう。多様性や個性が大切だなどと言いながら、それを否定している。そういう考え方というのはおっしゃる通り、思考停止しか生まない。
その根本にあるのは「いかに人間が思考を節約したいか」ということだと思います。面倒臭いことは嫌だというのは、人間の動物的な本性なんですね。考えるのは面倒だ、だから思考を節約したい。そういう本性が、誰にでもあります。だからこそ、自覚というか規律が大切になってきますよね。
澤:思考を節約すると、与えられた範囲でしか物事を考えられなくなりますから、チャンスの幅も限られた狭いものになりますね。
楠木:だと思いますね。僕は、多くの人が「思考する領域」を広く取りすぎていると思うんです。人間の脳の処理能力は限られているのに、何でもかんでも考えようとしている。すると、一個一個についての思考量を節約したくなってしまうんです。
だから「こういうことって、自分には関係ない」という領域を設定して、「何をやめるか」を決めることが大切なんじゃないかなと。「いや、それ全然興味ないんで」と言えるものを持っている人のほうが、むしろ思考を深めることができるはずです。
ケチな人ほど陥りがちな「本当の損」
澤:ただ、「やめる」とか「やらないことを決める」というのを、難しいと感じている人は多いですよね。だから、ミーティングひとつとっても「とりあえず参加しろ」とか、「とりあえず資料をつくっておけ」とか。やるほう、時間を使うほうを選択することが多いんです。
楠木:そうですね。
澤:それで何かをやめるためのキーワードとして僕がお伝えしているのが、「とりあえず」という言葉です。この言葉が出てきたら、やめておけと。
業務改善の提案をしてください、働き方を改革するためのキーワードをください、などと言われたときには、シンプルにこれだけを伝えています。
楠木:それは非常に効果的な規律の持ち方ですね。しかも、やりやすい。
澤:「とりあえず」という言葉が出てきたり、脳の中に「とりあえず」という言葉が浮かんできたりしたらやらないことにすると、けっこうシンプルになるんですよね。脳内にぱっと浮かぶキーワードを行動に紐(ひも)づけていくと、習慣化できますから。
楠木:それぞれの生活や仕事のルーティンに落とし込んでいくということですね。特に厄介なのが、澤さんが『「やめる」という選択』の中でおっしゃっている「埋没コスト」に関わるものだと思います。「せっかく○○したのだから、やめるのはもったいない」というものです。人間誰しも、ケチなんですよね。損をすごく嫌がる。もちろん僕だってそうです。それは本性なので逆らっても仕方がない。だとしたら一番有効なのは、やめるタイミングをできるだけ早くすることです。
澤:始めてから、早いうちにやめる決断をすると。

楠木:例えば、読書です。僕の個人的なルーティンでいえば、「まえがき」を読んで面白くなかったら、必ずそこで読むのをやめるようにしています。
澤:かなり早いですね。
楠木:僕も本を書く仕事をしているのでよく分かるのですが、本というのは、著者は最後まで読んでもらいたいと思って書いているわけです。本は普通、最初のページから読まれるわけですから、「まえがき」というのは読んだ人に面白いと思ってもらえるように書くのが普通なんです。にもかかわらず、つまらないということは、僕には向いていないんだろうなと。
澤:なるほど。
楠木:まあ、深追いしないで「次行ってみよう!」ということですね。これが早いほうが、「埋没コスト」を低減できるんじゃないかな。
澤:ドリフですね(笑)[注]。ドリフは何といってもテンポがすごいですよね。生放送の中でどんどん場面転換をしていたんですから。まさに「次行ってみよう!」ですね、やめるにはテンポが速いほうがいい。
楠木:そうそう。テンポよく「次行ってみよう!」で。深追いしてしまうと、人情としてやめられなくなりますから。
「良いこと同士の選択」という難しさ
澤:時間は有限であることを考えると、実際に何かをやめないと隙間ができないですよね。
楠木:そうなんですよ。僕は「競争戦略」を専門にしているのですが、この分野をつくったマイケル・ポーター先生の一番底にあるロジックもそれなんです。「戦略的なポジショニングのロジックは、トレードオフである」と。つまり「何かをやるということは、何かができない」ということ。これが他社との違いをつくるんです。ですから「何をやめるか」ということは、戦略的な意思決定なんですね。
澤:「やめる」ことは、戦略の一部であると。
楠木:だから僕が嫌だなと思うのは、すぐ「一理ある」という人です。何を聞いても「それも一理ある。うん、それも一理ある」って。だから僕は、「いや社長、人間世界に一理もないことなんて、存在しませんよ」と言いたくなる(笑)。
澤:本当にそうですね(笑)。
楠木:つまりね、「良いことと悪いことからの選択」であれば、良いことを選べばいいんですよ。それなら誰でもできます。でも本当の選択というのは、「良いことと良いことからの選択」なんです。つまり、異なった理のうちのどちらを取るか。だって、全部一理あるから。そうなると、スキルではどうしようもない問題となってきます。
澤:そこにセンスが関わってくるんですね。
楠木:そうです。どちらが良いかを「評価するスキル」は、あると思います。例えば「正味現在価値」を計算して、将来どれだけの利益が得られるかを比べるなどが代表的ですよね。ところが「良いことと良いことからの選択」だと、やはりそこにはセンスが必要になってくる。センスある「やめるという選択」が、必要になってくるんです。
そうして「何かをやめて、何かをやる」と決めた後、「やること」については、今度はスキルをつけていくという話になりますが、順番としては、「何かをやめないと、何かができない」わけです。資源が分散して、スキルも育たない。だから順番としては、「何をやめるか」を選択するセンスがあってこそのスキル、ということになる。起点には「何をやめるか」という選択があるんです。
澤:「やめる選択」が先に来る、ということですね。
楠木:競争戦略の考えと「何をしないか」という話は、非常に親和性が高いんです。それは、「他との違いがはっきりしている」ということでもあります。その時代における善しあしではなく、内発的な価値基準で「やらない」ことを決めている。そのほうが結果的に、顧客に対してもよりよい価値を提供できるものです。
ただいつの時代も、「今、これをやったらうけるよ」ということが必ずあります。ですから「それをしない」と選択することは、実は相当強い意思決定なんです。放っておくと、「あれもやれ、これもやれ」というフィードバックがかかってきますから。「やめる」ということには、最高の能動性、主体性が求められているんです。
澤:激動の中に置かれたとしても、「やめる」ということは自分自身でコントロールできることです。その選択が、新しい人生を切り開くための第一歩になるんだと思います。
楠木:澤さんの本には「他人の考えに合わせるのをやめる」という話もありました。多くの人は「何かいいことがある」と思って、他人の考えに合わせているんですよね。でも、「本当にそうですか?」と。「やめたときに何か問題があるんですか?」と。結局、頭の中にしかないことなんですよね。だから、大元にある気分が変わると、オセロみたいにバタバタバタッと変わっていくことになる。
その一番元のところ、オセロの隅っこみたいな場所にあるのが、この『「やめる」という選択』なんだと思うんです。
澤:「相手はこういうふうに考えているんじゃないか」というのは、だいたい気のせいとか勝手な思い込みですからね。
楠木:はい。僕は、この澤さんの新刊を、あえて一言で要約すると「気のせいです」になると思っています。「全部、気のせいですよ」というメッセージ。
澤:いいわ、それ(笑)。ほんと、気のせいなことばかりですよね。

まずは「計画の立てすぎ」をやめる
澤:僕は最近、「“いつか”は来ない」という話をしています。例えば「いつか読むだろうから、とりあえず取っておこう」と本棚に入れた本って、読まないですよね。たぶんほとんどの人がそうだと思うんです。その話をしたときに、リンクトイン・ジャパン(東京・千代田)で日本代表をしている村上臣さんがぱっとかぶせてきて、「いつかは来ないけど、まさかって来ますよね」とおっしゃいました。僕らは「いつか」には備えている。だけどその「いつか」はやってこない。だけど、全く備えていない「まさか」というのがぽんとやってくることが、人生ちょいちょいある。その「まさか」のときにどれだけ行動できるかが、結局ネクストステップに繋(つな)がりますよと。
楠木:今の話で言えば、計画を立てることを、まさにやめたらいいんじゃないかと。物事において、計画を立てすぎてしまうと、偶然性に対する間口が狭まってしまうからです。計画を立てるほど「いつか」は増えていくけど、「まさか」が減ってしまう。いろいろな人が集まって動いている組織だと、共通の理解をつくるためにある程度のプランニングは必要だと思いますが、個人の場合はある程度自分のビジョンはあるにせよ、がちがちのプランニングはやめておいたほうがかえって楽になりますよね。
澤:無計画は悪である、という概念がはびこっているみたいですけど、結局のところ計画通りにいくほうが、今の時代、少ないですから。「やべえ、あいつ事業計画書持ってきた、逃げろ」と、ベンチャーキャピタリストの連中が言う「シリコンバレージョーク」があるんです。これは「プランを立てているくらい、あいつは暇だ」ということなんです。
その裏には「持ってくるべきは、プロダクトやサービスだろ」というのがあるんですね。「こんなのつくってみました。見てください」というのであればいいのですが、計画書を書いているくらいであれば、こいつ暇だなと判断する。
楠木:「何をしないか」がカギとなる「戦略」と、「何をするか」を決めていく「計画」とは、全く似て非なるものですね。
(構成:黒坂真由子)
(後編に続く)
[日経ビジネス電子版 2021年9月23日付の記事を転載]
人生を自由にデザインするために
本当はやりたくないし、実はやる必要もないのに、自分自身がそれに気づかず、
「せっかく○○したから」
「これまで○○してきたから」
という理由だけで続けていること。
それが、人生の「埋没(サンク)コスト」です。
「発言しないけれど、出なきゃいけない会議」
「本当は気乗りがしない人脈構築のための会合」
「買ったけど、全然着ていない服。使っていないもの」
「いつのまにか“固執”してしまっている夢や目標」……
こうした、無意識のうちに人生の重荷となっている「埋没コスト」に目を向けて、
「やめる」という選択肢を持つこと。
それが、これからを自分らしく生きていくための「自己中」戦略であり、
「自分の人生を生きる」ということです。
本書で“コスト化”したヒト・モノ・コトとの関係性を見直して、
人生を自由にデザインしていきましょう。