今から20年近く前のこと、大学院を修了した私は、すでに非常勤講師として教壇には立っていたものの、国語の教員になるかどうか迷っていました。そんな私に学部時代からの友人が薦めてくれたのが、岡真理さんの論文『「戦争」の対義語としての文学』(岩波書店『思想』2006年9月号に掲載)でした。
「戦争の対義語は?」と問われたら、何と答えるでしょうか。一般的には「平和」が思い浮かびますよね。
タイトルに衝撃を受けて読み始めると、冒頭にイスラエルによるパレスチナ侵攻の話。続いてかつてサルトルが問うた「アフリカで子どもが飢えているとき、文学に何ができるか」を引き合いに、「イスラエルの空爆下、レバノンの人々が犠牲になっている今、文学にいったい何ができるのか?」という問いが投げかけられます。
この論文を通して語られるのは、アラブ文学者である岡真理さんが行き着いた答え、「戦争の対義語は文学である」ということなのです。

人間らしく生きることを否定されているからこそ、文学を必要とする
もちろん対義語とは必ずしも言えない面もあり、歴史をひもとけば、与謝野鉄幹が戦争を賛美する軍歌「爆弾三勇士の歌」の作詞を手がけ、北原白秋が戦争詩を数多く作るなど、文学が戦争に加担してきたことは歴然とした事実ではあります。
その一方で、この論文の中で取り上げられるのは、著者がパレスチナの家庭を訪ねたときに出合った、その家の娘の「本を読んだりして、なんとか気を紛らわしています」という言葉です。それは狂気のような日常の中で、人間が正気を保つために、人間が人間としてあるために、文学が求められているということにほかなりません。
さらに、著者はいくつかの文学作品をひもときつつ、人間らしく生きることを否定されているからこそ、他の誰にも増して文学を必要としているのだということを明らかにしていくのです。
言葉の力、文学の力をかみしめるようにしてこの論文を読んだ当時の私は、これを、国語という教科を通じて生徒に伝えていけたら、と思ったのです。
先生たちに聞いた人生を支える一冊
あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】聖光学院/開成/灘/渋谷幕張/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)
慶応義塾大学の入試で出題される
そして、この論文の発表から約半年後、慶応義塾大学の文学部の入学試験で、この論文が小論文の問題文として出題されました。
文学部を志す受験生たちに全文をじっくり読ませて文学の意義を考えさせ、文学は戦争の対義語たり得るかについて考えを述べよという設問です。
出題する側の強い思いがストレートに伝わってくる問題ですが、それにしても受験生に求めるレベルが高いですね。ここ十数年でも、屈指の難問といわれています。
祈りとしての文学。文学は祈ることができる
その翌年の2008年、岡真理さんは『 アラブ、祈りとしての文学 』(みすず書房)を出版されます。本書の中で、著者は文学の観点からアラブ世界を掘り下げ、小説を書くということ、小説を読むということの意味を問い直します。
先ほどお話しした論文『「戦争」の対義語としての文学』に書かれていることは、本書の第1章、第2章でページを割いて詳しく扱われていますが、特筆すべきは、本書では「文学は祈りである」というところに到達していることでしょう。
「その生もその死も、世界に記憶されることのないこれら小さき者たちの尊厳を、小説こそが描きうるのだ」という意味で、文学は「祈ることしかできない小さき人々に捧げられた祈りでもある」と著者は結んでいます。
祈りとしての文学。文学は祈ることができる…。その力を信じて、国語の教員としてやっていこうという気持ちはこの頃に固まったように思います。
著者の想像力が紡いだ設定に圧倒される本
続いて、文学の力、物語の力をフィクションに落とし込んだ作品として、『 人質の朗読会 』(小川洋子著/中央公論新社)を紹介します。
この物語は地球の裏側にある小さな村で、遺跡ツアーに参加した日本人8人が反政府ゲリラに拉致されたという一報から始まります。犯人グループと政府との交渉は行き詰まり、拉致から100日以上が過ぎて、犯人が仕掛けたダイナマイトの爆発で人質は全員死亡します。
その2年後、当時犯人グループの動きを探るために仕掛けられていた盗聴テープが公開されます。そこには、人質となった8人それぞれが自分の思い出を書き、それを朗読する声が残されていたのです。
朗読会で、一つの場所に閉じ込められた人質たちが語るのは、「いつになったら解放されるのかという未来」ではありません。「未来がどうあろうと決して損なわれない過去」の思い出を取り出して、それを言葉にしていく。それは一人ひとりが生きてきた証しであり、自分だけのささやかな物語でもあります。
テープは「人質の朗読会」と題されたラジオ番組で流され、その放送を1人ずつ再現した…というのが本書の内容です。
この本を読むと、まず著者の想像力が紡いだこの設定に圧倒されてしまいます。死と隣り合わせで語られた物語は、なんの変哲もない人生の一コマ。ただどこか「死」とつながるものが多く、直接でなくても「死」をイメージさせます。それを語るのは、今はもう死んでしまった人質たち。その前提が短編に深い意味を持たせ、死と生と祈りが見え隠れする。一編一編の内容にはまったくつながりがないのに、連作短編のような雰囲気を漂わせるのです。
朗読会を聞いていた人物として最後に登場する政府軍の兵士は、閉ざされた廃屋での彼らの朗読を、「彼らの想像を超えた遠いどこかにいる、言葉さえ通じない誰かのもとに声を運ぶ、祈りにも似た行為であった」と語ります。
誰かのために語っているのではない。無力であると知りつつ、「届け」という祈りが語らせている。届かなくても人は「届け」と祈る。これはまさに『アラブ、祈りとしての文学』に通底するテーマではないでしょうか。
私は普段古典を教えているため、授業で生徒と小説や評論文を読む機会はほぼありません。ですので、学年末の授業などを利用して気になる本を紹介するように心掛けています。『アラブ、祈りとしての文学』は高校3年生の最終授業で何度か扱ったことがあります。
聖光学院の生徒は文系の生徒だけでなく理系も読書好きがとても多く、生徒たちはいつも面白い本を求めていると感じます。また、自分の糧として吸収し自分の中で膨らませる力もあるので、反応が良く、非常に紹介しがいがあります。
卒業生が元気な顔を見せ、「先生が紹介してくれた本を読みました」「大学の授業で古典を取りました」などと報告してくれるのは、国語教員としては無上の喜びです。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也




