国際基督教大学高等学校(ICU高校)の大きな特徴は、1学年240人のうち3分の2が世界各国からの帰国生であること。世界の平和に貢献できる人物を育てるという教育理念のもと、帰国生と一般の学力試験を経て入学してくる国内生とが交ざり合い、互いの経験や考え方を理解し受け止めながら伸び伸びと学校生活を送っています。
そんな多様性を尊重する教育に魅力を感じて入ってくるからでしょうか。固定観念にとらわれずに新しい考え方や価値観に触れ、そのなかで自分に起こる変化を恐れない生徒が多く、その勇気と心の柔軟さには感動を覚えるほど。
授業中の彼ら彼女らは常にオープンマインドで、ざっくばらんに発言をし、相手の発言を深く聞く。グループワークも発表も大好きで、熱心に取り組んでくれます。
教室を心理的安全性の高い場所にすることが、授業を行う上では一番難しく大切なことなのですが、教室に入ると既に生徒の側がごく自然にそんな空気をつくってくれている。そんなみんなに大いに助けられて、教師としての私があります。
「海をあげる」と言われた私たちは、この言葉をどう受け止めるのか
「先生、この本、みんなで読もう! 読書会しよう!」とある生徒に誘われたことがきっかけで出合った 『海をあげる』 (上間陽子著/筑摩書房)をまずご紹介します。
この本は、沖縄で若年出産した少女たちの調査と支援活動を続けている上間陽子さんが、沖縄の人々の思いを、普天間基地のそばで幼い娘さんと暮らす自身の日常を絡めながらつづったエッセー。
痛みや哀しみ、怒りを抱えながらどうしようもなく続いていく日々の暮らし。そこには言葉にできない思いが渦巻いていて、それを必死に表し受け止めているような、そんな文章が12編並んでいます。
そのなかで特に印象的だった一編が、辺野古の海に新基地建設のために土砂が投入された日の出来事を描く「アリエルの王国」です。
「海に土を入れたら、魚は死む? ヤドカリは死む?」と、その日の朝、辺野古へ向かう母に娘の風花ちゃんが尋ねます。
夕方、母が座り込みから帰って来ると「海に土を入れたら、魚はどうなった?」「ケーサツは怖かった?」と。
そして、夜眠りに落ちそうになりながら「お魚やヤドカリやカメはどこに行く?」と。
「ねえ、風花。海のなかの王妃や姫君が、あの海にいる魚やカメを、どこか遠くに連れ出してくれたらいいのにね……」。
これは読まなきゃいけない文章だ、と思いました。私たちは知る責任がある。
色とりどりの魚やカメが行き交う辺野古の海。ひょっとしたら人魚のアリエルが潜んでいそうな青い海に、今日も土砂が入れられているのです。沖縄の人たちが、何度もやめてと叫んでいるというのに。
そこにある、圧倒的な暴力みたいなもの。東京にいて、沖縄に何を押し付けているのかを問わずに生きていること、それ自体がすごく暴力的な行為なのではないか。
上間さんは、この本の最後を「この海をひとりで抱えることはもうできない。だから、あなたに、海をあげる。」という言葉で結びます。
静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる、電車でこれを読んでいるあなたにあげる。
「海をあげる」と言われた私たちは、この言葉をどう受け止めるのか。
ICU高校では3年生の4月に沖縄への修学旅行を実施しています。その事前学習という意味もあって、2年生の3学期の現代文の授業は「戦争と平和」をテーマに行っているのですが、この本に出合って以来、私は毎年、授業で「アリエルの王国」を生徒たちに紹介しています。
「行く前に知ることができてよかった」「自分に何ができるのか考えたい」……毎年そんな感想を言ってくれる子がいます。実際に辺野古へ行ってみて、それをSNSで発信する子が出てきたり、いろいろな関連情報をシェアして広げようと動く生徒が出てきたり。
そんなところからまた何かが生まれて広がって、あげると言われたその海を私たちが受け取って「地上の王国」を作っていくことができたら――!
人生の進路に迷い、悩み、疲れてしまう高校生たちに読んでほしい
次に紹介するのは、学校や公共施設で「哲学対話」を開いている永井玲衣さんの
『水中の哲学者たち』
(晶文社)。
この本の魅力は「立ち止まって考えてみる」ということの手触りがすごくよく分かる本であるということです。
例えば「幸せって何?」とか「ゆるしは必要か?」とか「私はここにいてもいいの?」という問い。当たり前だよ、考えてもしかたがないよ、と流してしまうことが多いですよね。
ところが、この本には、そうじゃないよ、一つ一つ立ち止まって考えてみることって大切なんだよ、ということが書かれているのです。
高校生くらいの頃に、そんな問いを自分に向けてみること、しょうもないなんて思わずにとことん考えてみることは、自分らしく生きていくことを模索する上ではとても重要。だから、若いみなさんにぜひとも読んでいただきたいと思って選びました。
高校2年、3年というのは、人生においてやるべきことを決めて目指していかなくてはならない時期です。迷い悩む生徒に「これ、読んでみたら?」と、この本を薦めたことがあります。数日後届いたメールには、「本を読んで初めて泣きました」と。この本に出合えてよかったという喜びに満ちたメールでした。
その子が涙したのが、私も大好きな「存在のゆるし」という章です。
私たちは「ただ存在することが苦手だ」と筆者はまず指摘します。「ただ存在していることは、いたたまれない」から「何か役割を得たいと思う」のだ、と。
会議では「議論を記録するひと」に、雨の日は「傘をさしているひと」に、電車の中では「スマホをいじっているひと」になれるものならなりたい。
なぜなら、役割を持っていない人のことを私たちは軽視して、「まなざしの圧力」で「押しつぶそうとする」から。「役割を持て、役に立て、と叱りつける」から。
この「役割を持て、役に立て」は呪いの声だと筆者は断じ、文章の後半では、筆者が始めたささやかな抵抗である「ただ存在する」運動が、根底に優しさのあるユーモアを含んだ筆致で描かれるのです。
「あなたは存在してくれるだけでいい」という承認なんて、なくても元気に頑張れる子がいる一方で、それがどうしても必要な子もやっぱりいる。
『水中の哲学者たち』は、そんな人たちを支えてくれる力を持った本だと思います。
自分の「好き」が何なのか分からない、そう思っている高校生は少なくない
とは言っても、「誰かの役に立ちたい」「社会の中で大切な役割を果たしたい」と考えるのは普通のことで、逆に言うと「そうじゃないことはやりたくない」というのが世の風潮ですよね。
生徒たちを見ていても、社会貢献を目指していろいろな活動にたくましく踏み出していく子はたくさんいます。それをとても頼もしく思う半面、役に立たなくても、それはそれでいいんだけどなー、という思いもある。
今の高校生、自分の「好き」が何なのか分からない子は少なくありません。
進路相談中、「やりたいことはないの?」「好きなことはないの?」という問いに返される「なーんもないです」。
いやいや、そんなわけないでしょう。
ほんとは「好き」はあるのだと思うんですよ。でも、世の中では意味がないと勝手に思い込んでいるから表に出せない。学問として成立するか? 世の中から求められているか?という観点で選ぼうとするから「なーんもない」と思えてしまうだけであって、自分の心が弾むことや楽しんでできることは絶対にあるはずなんです。
そんな人にぜひともお薦めしたい本が、郡司芽久さんの 『キリン解剖記』 (ナツメ社)です。
子どもの頃からキリンが大好きだった郡司さんは、「キリンの研究がしたい」という思いだけで突き進み、国内にキリン研究で生活している人が一人もいないという状況の中で、キリン研究の道を切り開いていきます。
この本で語られるのは、そんな郡司さんが「キリン博士」になるまでの成長ストーリー。それは、学問することで世界が少しずつ開けていくワクワク感に満ちていて、大学に行って勉強するということがきっと楽しみになる。読んだ人を元気にしてくれる1冊です。
ICU高校の多様性に満ちた環境で、生徒たちは様々な文化や価値観を持つ他者を理解し受け入れていきますが、そのなかで同時に育まれるのが、自分は自分でいていいという感覚。それは、これから先の人生の土台になるものだと思います。
進路を決めるに当たっての迷いや不安は当然あるでしょう。でも、どんな道を選ぶにせよ、そこで羽ばたくための土台はちゃんとできているから大丈夫。
その土台をバネに、自分の進みたい方向へ自由に羽ばたいていってほしいな、と思います。
取材・文/平林理恵 写真/稲垣純也