筑波大学には、筑駒(筑波大学附属駒場中学校・高等学校)を含めて附属学校が11校あります。
 その半数は視覚や聴覚の特別支援学校で、学校間で様々な形で交流の機会があるんですね。それが筑駒の特徴の一つにもなり、学校の風土を形作っているように感じています。

 交流しているときに両校の生徒たちから醸し出される空気がすごくいいんですよ。新しい何かをみんなで探し求めるみたいなあの感じ。

 それで今回、『 目の見えない白鳥さんとアートを見にいく 』(川内有緒著/集英社インターナショナル)を紹介することにしました。これは、著者の川内さんが、全盲の美術鑑賞者・白鳥健二さんと一緒に巡った、美術作品を見る旅の記録。特別支援学校と交流する場面のあの感じと同じような感覚を呼び起こしてくれる一冊です。

「『 目の見えない白鳥さんとアートを見にいく 』(集英社インターナショナル)は、著者の川内有緒さんが全盲の美術鑑賞者・白鳥健二さんと一緒に巡った、美術作品を見る旅の記録です」
「『 目の見えない白鳥さんとアートを見にいく 』(集英社インターナショナル)は、著者の川内有緒さんが全盲の美術鑑賞者・白鳥健二さんと一緒に巡った、美術作品を見る旅の記録です」
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「みんなで見る、話すというプロセス」で何かを発見することを楽しむ

 目の見えない人がいったいどうやってアートを鑑賞するのか。本のタイトルから多くの人が想像するのは、彫刻作品などを手で触って鑑賞するということではないでしょうか。

 著者の川内さんも最初は大いに戸惑い、「触ってみる?」「それとも体験型の作品?」と想像を巡らせていたそうです。

 初めて白鳥さんと一緒に行った美術館。ピエール・ボナールの『犬を抱く女』の前で、白鳥さんに「何が見えるか教えてください」と促され、川内さんは見たまま感じたままを取りあえず言葉にしていきます。

 「ひとりの女性が犬を抱いて座っているんですが、犬の後頭部をやたらと見ています」。その姿から、猫のノミをチェックしている自分の母の姿を連想し、それを口にしていく川内さん。すると同行していた友達が、「この女性は何も見ていない、何か考えごとを始めてしまい、食事が手につかないようだ」と主張します。同じ作品を見ているのに二人の見方はかくも異なる。

 こんな説明でいいのかと川内さんは不安になりますが、白鳥さんはそのほうが面白いと。白鳥さんは作品の解説は求めておらず、一緒に見ている人たちのやり取りや意見の違いを含めた「みんなで見る、話すというプロセス」を通して何かを発見していくことを楽しんでいるのです。

 そんななかで川内さんも、人との違いを面白がったり、他の人の感想を聞いて新しい見方ができたりしていくことを楽しめるようになっていきます。

森 大徳(もり ひろのり)。筑波大学附属駒場中・高等学校 国語科教諭。1982年生まれ。東京大学卒業後、同大学院ならびに東京学芸大学大学院修士課程修了。開成中学・高等学校教諭などを経て、2019年より母校の筑波大学附属駒場中・高等学校教諭。趣味は観劇で、前任校時代から演劇部顧問も務める。共編書に『中高生のための文章読本』(筑摩書房)がある
森 大徳(もり ひろのり)。筑波大学附属駒場中・高等学校 国語科教諭。1982年生まれ。東京大学卒業後、同大学院ならびに東京学芸大学大学院修士課程修了。開成中学・高等学校教諭などを経て、2019年より母校の筑波大学附属駒場中・高等学校教諭。趣味は観劇で、前任校時代から演劇部顧問も務める。共編書に『中高生のための文章読本』(筑摩書房)がある
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「目の見える人」がサポートするという発想はない

 ある美術館のスタッフは、それまでずっと湖が描かれているとばかり思っていたものが、実は原っぱであったことに、白鳥さんに説明をしているうちに初めて気づかされます。また、白鳥さんに説明しようとみんなで感想を述べ合っているうちに、作品の神髄にまで到達してしまうことも。

 ここには、「目の見える人」が「目の見えない人」をサポートするという発想はありません。見えない人と一緒に作品を鑑賞し、伝えるために懸命に見て、それを言葉にすることで、自分の思い込みに気づいたり、見方が変わったり、それまでなかった見方が生まれたりする。見えない人の存在があるからこそ、見える人はよりよく「見る」ようになっていく。

 身体的な条件の異なる人たちが関わり合っていくことの面白さ、豊かさ。そこに気づかせてくれるのがこの本の魅力です。

 そして、それは、まさに特別支援学校との交流を通して、生徒たちがみんなで何かを探っていく感じに通じるように思えるのです。

「身体的な条件の異なる人たちが関わり合っていくことの面白さ、豊かさ。そこに気づかせてくれる。それは、まさに特別支援学校との交流を通して、生徒たちがみんなで何かを探っていく感じに通じるように思えるのです」
「身体的な条件の異なる人たちが関わり合っていくことの面白さ、豊かさ。そこに気づかせてくれる。それは、まさに特別支援学校との交流を通して、生徒たちがみんなで何かを探っていく感じに通じるように思えるのです」
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「日本語と日本手話は別の言葉」、言葉が違えば見ている世界も異なる

 関連してもう一冊、身体的な条件が全く異なる家族を描いた『 異なり記念日 』(齋藤陽道著/医学書院)を紹介したいと思います。

 著者の齋藤陽道さんは、プロの写真家。生まれた時から耳が聞こえませんが、家族は聴者。幼い頃から補聴器を付けて日本語の訓練を受け、日本語を第一言語として育ちました。妻の真奈美さんは、家族が全員、ろう者という家庭で育ち、母語は日本手話。
 齋藤さんによれば、「日本語と日本手話は別の言葉」で、言葉が違えば見ている世界も異なるのだそうです。こんなに異なる二人のところに、三人目の家族、聴者である樹さんが生まれてきます。

 この本には、異なる条件を持った3人が、異なったままでつながっていく日々が描かれています。

「『異なり記念日』(齋藤陽道著/医学書院)は身体的に異なる条件を持った三人が、異なったままでつながっていく日々が描かれています」
「『異なり記念日』(齋藤陽道著/医学書院)は身体的に異なる条件を持った三人が、異なったままでつながっていく日々が描かれています」
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 私が好きな場面は、樹さんが上手に体を使って「月」や「太陽」を表現しているのを見て、齋藤さんも、体を使ってその日の天気を樹さんに伝えるのが日課になる場面。

 たとえ「晴れ」の日が続いても、日差しの強さや雲の形など日々変化していく自然現象に、体が生み出す「ことば」は微妙に「変わらされて」しまう。そうやって体を使った「ことば」で表現することで、「同じ日なんて一日もないんだ」と齋藤さんは気づくんですね。毎日が新しい一日なんだという気づきは、異なる者たちが一緒にいて日々交流するからこそ見えてきたものなのです。

目の見えない人たちの「声の表現の豊かさ」に気づく

 私自身は演劇部の顧問をしていて、毎年、視覚特別支援学校との演劇ワークショップを行っています。
 年に一度のことなので、最初はちょっと緊張するし、何か特別な配慮をしたほうがいいかな、とつい考えたくなってしまうんですね。

 でも、実際にやってみると、そんな必要は全くありません。配慮なんかしなくても、生徒も私も自然に話し合いを行い、一緒にシーンを創り上げていく。

 そういったなかで、たとえば目の見えない人たちの声の表現の豊かさに気がつくことがあります。人と人との間にある距離感や空間の広がり。「そこまで声で表現できるんだ」……その発見や心の揺れが、今度は見える生徒たちの表現を豊かにしていく。

 異なる者同士が触れ合うことで、新しい何かが生まれてくる。ここで紹介した二冊は、読書を通してそのことを体験させてくれる本だと思います。

 ちなみにこの本は、どちらも図書館の「養護の先生のお薦め本コーナー」に並んでいます。特別支援学校の児童生徒と触れ合う機会があり、図書館へ行けばこういう本棚がある。こういう環境が、学校全体の安心感にもつながっていると思います。

 図書館には、養護の先生だけではなくあちこちに「〇〇先生のお薦め本コーナー」があり、司書さんがつくったPOPが置かれていてけっこう注目されています。

 生徒たちは「何か面白いもの」をいつも読みたがっているとお話させていただきましたが( 筑駒・森大徳教諭「読み終えたら、世界の見え方が変わる」 )、筑駒の図書館は司書さんのおかげで、ふらっと立ち寄れば「面白いもの」に出合える環境がいつも整っています。

「筑駒の図書館には、あちこちに『先生のお薦め本コーナー』があり、司書さんがつくったPOPが置かれていてけっこう生徒に注目されています」
「筑駒の図書館には、あちこちに『先生のお薦め本コーナー』があり、司書さんがつくったPOPが置かれていてけっこう生徒に注目されています」
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理想は「君にピッタリの本がここにあるよ」と手渡すこと

 そんな彼らと本とのいい出合いをどう作り出していくか、これは僕ら国語の教員にも課された大切な仕事だと思います。

 それもあって、私は最近「リーディングワークショップ」という、図書館で読みたい本を個別に読む授業に挑戦しています。

 この授業の一番のポイントは選書。自然に選べる子は放っておいても自分で探り当て読み進めるのですが、自分が何を読みたいのかわからない、読みたいイメージはあるけれど、どれを選べばいいかわからない……こういう子たちそれぞれに合った本をどうマッチングさせるか。

 事前に一人一人コメントを書いてもらい、本選びに迷っている子、悩んでいる子には積極的に声をかけて話を聞いて、一緒に書架を巡ります。

 理想は、「君にピッタリの本がここにあるよ」と、迷いなく本棚から一冊の書物を引き抜いて手渡すこと。ああでも、これってすごくむずかしくて、生徒一人一人の興味や好みもあるし、なによりこちらの読書の量というか分厚さが試される。

 その意味では私は全く十分とは言えず、試行錯誤の連続なのですが、それでも、あるんですよ、選んであげた本が「ドンピシャでよかった!」ということが。選んだ本の世界にのめり込んでいる様子が見えたり、「この本、めっちゃ面白かったです」と言いに来てくれたり。こういうときは、本当にうれしくて。

「図書館にはカーペットを敷いたスペースもあり、床に座ったり、寝転んだりして、ゆったりとくつろぎながら本を読むことができます」
「図書館にはカーペットを敷いたスペースもあり、床に座ったり、寝転んだりして、ゆったりとくつろぎながら本を読むことができます」
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新しいものや面白いことが生まれやすい風土こそが筑駒らしさ

 筑駒は、生徒数も少なく、学校全体がどこか一つの家みたいなところがあります。ゆったりした空間は緑豊かで、頭の上には空が広がっていて、ごろっと寝そべったり、ただぼんやりと過ごしたり、好きなことのできる場所があちこちにある。この居心地のよい空間に身を置き、自由にものを考える、やりたいことをやる。

 そういう風土の中で、文化祭をはじめとして完全に生徒たちの手で行われる様々な行事も、その都度、自分たちならではのものを創り上げようとする。

 こういうスタンスでことを行えば、想定外のことが起こりがちですが、それもまた面白いじゃないか、と、みんながなんとなく思っている。そして、その中で最適解を見つけるべく力を発揮する。だからやりたいと思ったことにチャレンジしやすいんです。
 今までお話してきたこと全体にも通じるのですが、異なる才能や個性が交ざって新しいものや面白いことが生まれやすい風土こそが、筑駒らしさではないかと思うんです。

 国語の授業や演劇部の文脈でいうと、筑駒生は驚くほど言葉遊びが好きです。単純な語呂合わせもそうですが、言葉から連想を繰り広げたり、ふつうはあり得ない言葉の組み合わせからイメージを喚起させてお互いに楽しんだり。卒業生に劇作家・演出家の野田秀樹さんがいらっしゃいますけど、その作風のルーツともいえそうな光景を目の当たりにします。言葉と戯れながら、そこから立ち上がる世界をともに楽しむ風土が、昔からあるのだと思います。

 言葉にはあらかじめ決まったことを伝達するだけではなく、イメージを広げたり新しく生み出したりして世界を創る働きがありますよね。

 生徒には伝達だけでなく創造も大切にしてほしいし、異なる他者と言葉を通して世界を豊かに創っていく喜びをたくさん経験してほしいと思います。そして、大人である私たちは、そういう経験へ彼らを導くしかけを、これからもたくさん作っていきたいですね。

「生徒には伝達だけでなく創造も大切にしてほしいし、異なる他者と言葉を通して世界を豊かに創っていく喜びをたくさん経験してほしいと思います」
「生徒には伝達だけでなく創造も大切にしてほしいし、異なる他者と言葉を通して世界を豊かに創っていく喜びをたくさん経験してほしいと思います」
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取材・文/平林理恵 写真/稲垣純也