前回は、生徒たちの弱点である「書かれていないことを読み取る」をテーマに、安部公房の寓話(ぐうわ)「鞄」を紹介しました(関連記事 「灘・井上教諭 受験勉強に慣れ過ぎた頭を解きほぐす一冊」 )。
それに続く今回のテーマは「知識を作り出す」。これだけを聞くと、え? 知識って作るものなの?と感じる方が多いかもしれません。
そもそも学校というところは、知識があふれている場所とも言えます。教科書にはたくさんの知識が載っているし、教師はせっせと知識を教え込む。生徒たちは学校生活の中でおびただしい知識を得ることになります。
そういったなかで、日本の中高生は得てして知識というものを、変わることのない絶対的なものであると考えてしまいがちです。だから、疑問を差し挟んだり、じっくり考えたりすることもなく、すんなり受け入れてしまう。否定し得ないものだと、捉えてしまう。
でも、知識ってそういうものでしょうか。私が研究している国際バカロレア教育では、知識は授かるものではなく、みんなで作っていくものであると考えます。
いろいろなバックグラウンドを持つ人との対話を通じて、既存の知識を絶えず再構築していくのです。
大切なのはクリティカルに物事を捉えること
「君たちが信じ込んでいる当たり前というものは本当に当たり前なのか、どこまで当たり前と言えるのか…」。知識を作り出すためには、こんな問いを生徒たちに投げかけ、考えてもらう必要があります。
大切なのは、うのみにせずに、分析しながら考え、吟味してから判断すること、つまり、クリティカルに物事を捉えること。
でも、これは本当に高度で難しく、入学したばかりの中学1年生にはやはり難しいんですね。
ところが、ここで海外に目を向けると、状況は一変します。なぜなら、米国や英国など諸外国の学校では、対話型の授業によってクリティカルシンキングを小さい頃から鍛えているから。国際バカロレア教育の世界ではごく普通のことなんです。
一方、日本の教育現場では、今でこそクリティカルシンキングは重要なものと位置付けられていますが、これまで多くの現場でなおざりにされてきました。
先生たちに聞いた人生を支える一冊
あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】灘/開成/聖光学院/渋谷幕張/豊島岡女子学園/フェリス女学院/広尾学園/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)
今の生徒たちは、親の時代とは異なる
私たち親世代は、教科書に書いてあることは基本的に受け入れなさい、と言われて育っています。自分の見解なんて求められもしなかった。国語の授業でも、まず筆者に寄り添った読みをやります。「うんうん、なるほど、筆者はそう考えているのか。そうかそうか、よく分かったぞ」という読み。そして、「次の文の中から筆者の考えと一致するものを選びなさい」という問い。筆者の考えを否定するのはとんでもない、みたいな。今でこそ、少しずつ変わってきてはいますけれども。
ところが、今の生徒たちは親の時代とは異なり、教科書に書かれていることやこちらが言うことを乗り越え、新しいものを作り出すことが求められているわけで、私たち教員がなすべきは、それを最大限に支援することではないかと思うのです。
そこで、そんな生徒たちに役立ててほしいと考えて選んだ本が、 『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』 (坂本旬・山脇岳志編著/時事通信社)です。
メディア環境が激変するなかで、メディアリテラシー教育の重要性が叫ばれています。メディアのメッセージには特定の価値観や視点が埋め込まれているから、それをちゃんと見抜け、うのみにするなよ、と。
メディアリテラシー教育とは、要はクリティカルシンキングの力を養うということなのです。なぜそうなのか、そのためにはどんな課題があって、自分は何をしたらいいのか、ということが、400ページ近い本書では、実践的かつ多面的にまとめられています。
学校現場では、探究学習ということが、ここ数年のわりとホットなテーマになっています。これは、生徒が自分で問いを立てて、それを解決すべく情報の収集や分析を行い、最後にそれをまとめて表現するという総合的な学習です。
ただ、探究のステップが順序だって示されているために、実は現場では分業制みたいになってしまうことも少なくありません。例えば問いを立てるのは国語科で、情報収集は情報科で、まとめるのは理科や社会科など専門分野の先生方にお願いね、という形で。
でもこれでは、生徒の探究に対する気持ちは削がれてしまう。各教科・科目の授業もおのずと探究ベースなものから遠ざかっていくでしょう。そういった時に高校生が探究学習の全体像を確認したり、探究活動の一貫性やその意味を再認識したりするために、この本はきっと役に立ちます。
他者が書いたものを通して、自分の当たり前を揺さぶる
この文脈でいうと、読書というものの大きな役割として、他者が書いたものを通して自分の当たり前を揺さぶる、ということが挙げられるのではないでしょうか。
そこでお薦めしたいのが、 『考える耳 記憶の場、批評の眼』 (渡辺裕著/春秋社)です。著者の渡辺裕さんは、音楽美学の研究者。新聞の連載をまとめた評論集であるこの本では、音楽を切り口に政治や経済、芸能など世の中のさまざまな事象がダイナミックに考察され、読むと常識的な価値観が覆されます。
その中の一編、高校の教科書にも掲載されたことのある評論「トロンボーンを吹く女子学生」をここでは紹介したいと思います。
トランペットやトロンボーンは男性の楽器で、ピアノやハープは女性の楽器という、ジェンダーと結び付いた楽器イメージがありますよね。
今も残るこのイメージは、19世紀の良妻賢母イデオロギーの広がりを背景に形成されたものであると筆者は指摘します。
つまり、一見自然に思われる感覚も、実は人間に本質的に備わっている感覚ではなく、歴史的・社会的な影響を受けながら無自覚なうちに内面化されたものなのです。
であるとすれば、自分の当たり前っていったい何なんだ? この当たり前は誰がいつ作ったのか? 本当に当たり前なのか? 本書が突きつけてくるのは、自分の当たり前を疑え! ということではないか。
私はこの「トロンボーンを吹く女子学生」を、クリティカルシンキングの力をつけるための授業の教材として使っていて、その授業は先ほどの『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』のなかで、メディアリテラシー教育の実践例の一つとして、紹介されています。
一言で言うと「教科書を疑え」という授業
授業の狙いは「国語の教科書をクリティカルに読む」。教材としては、教科書にある「トロンボーンを吹く女子学生」の他に、フランス革命のイデオロギーが「集団的記憶」として国民の間で身体化し、深く刻まれていく過程を明らかにした渡辺裕さんの論考も用意して読んでもらいます。
そのうえでグループに分かれ、「イデオロギーが歴史的、社会的に構成され、集団的記憶として各個人の中に身体化され、内面化している」という著者の主張はどの程度妥当と言えるかを、意見交換しながらみんなで考えていきます。
一言で言うと、「教科書を疑え」という授業です。教科書ですら、クリティカルに向き合うことが必要だということを伝えたいと思いました。
私は今、教科書の編さんにも関わっていますが、教科書ってそもそも恣意的というか、ある意図をもって切り取られた情報が並べられていますよね。その意味では、教科書もメディアの一つと言えますし、メディアであるならば、そこに載っている一つ一つの文章も、必ずしも正しいものとして読み取らなくてよいわけです。
一般的に、生徒たちは教科書を「権威ある専門家たちが、正しい知識をつづったもの」として享受しようとします。灘校生も例外ではなく、「書かれた文章に対して疑義を唱えても仕方がない」と考えがちです。でも、筆者の主張を自分たちが身を置く社会に落とし込んでみると、案外その主張の妥当性が揺らいだり、自分がこれまで気づかなかった知識の存在を見いだしたりします。
「トロンボーンを吹く女子学生」の授業も、様々なイデオロギーが常識として自分の中に入り込み、自分はその影響を少なからず受けながらものを見ているという事実に無自覚になりがちな生徒たちにとって、自分のものの見方を意識下に引き出して捉え直すことにもつながりました。仲間と正解のない問いに向き合うという授業は、灘校生にとっても刺激だったようです。
教科書を絶対的な存在として捉えず、一つのメディアとして向き合いながら、新しい知識をみんなで作っていく授業づくりをこれからも行っていけたらと思います。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/太田未来子






