第1回は「書かれていないことを読み取る」をテーマに、第2回は知識をみんなで作り出すという文脈の中で「当たり前を疑う」をテーマに、お薦めの本を紹介しました(関連記事「 灘・井上教諭 受験勉強に慣れ過ぎた頭を解きほぐす一冊 」「 灘・井上教諭 読書を通して生徒の『当たり前』を揺さぶる 」)。
最終回となる今回は「問いを立てる」がテーマです。 まず、旧制灘中学校の時代から50年にわたって本校で国語を教えていらした橋本武先生の著書 『伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力』 (日本実業出版社)を紹介したいと思います。
橋本先生といえば、中学校の3年間をかけて、中勘助の小説『銀の匙』1冊だけをじっくり読み込む授業で知られる“伝説の”灘校教師。
横道にそれる仕掛けがたっぷり盛り込まれたガリ版刷りの手作りプリントや、主人公の見聞や心情を丁寧に追体験していく授業スタイルは、橋本先生が退職された後もずいぶん話題になりました。
また、100歳を目前に、灘校の「土曜講座」で『銀の匙』特別授業をしていただいたことも。当時、私はまだ灘校の教員ではなかったのですが、先生の講演会に伺い、お話しさせていただいた思い出があります。
たいへんな趣味人でもあり、カエルグッズの収集をされていた橋本先生。それは何かの役に立てるためのものではなかったはずです。「無用は無用のままでよい。世の中の価値基準に惑わされず、自分が幸せを感じる感性を大切にしなさい。それが種となり花咲くこともある」。先生がこうしたことを私に語りかけてくれているようで、遺品整理の際、勝手を言って、小さなかわいいカエルを1ついただいてきました。これは私の宝物です。
国語嫌いのままにしておくわけにはいかない
この本を開くと、半世紀にわたる灘校での授業の中で、橋本先生が大切にされてきたものや伝えたかったことが、あふれ出てくるように思います。
すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる
国語力はすべての学問の基礎、国語力イコール“生活力”
体験に根差すこと、横道にそれること……
そして、面白がること、遊ぶような感覚で学んでいくこと
この本に限らず他の著書でも、先生は繰り返し、国語を嫌いにしてはいけないということを述べられているのです。
これは本当に大事なことで、私も日々痛感しています。灘校は1学年に文系の生徒がおよそ40人で、残りの約180人は理系です。もともと数学や理科が得意で好きな生徒が多く、国語に苦手意識を持つ生徒が少なくないんですね。
でも、嫌いのままにしておくわけにはいかない。なんとか国語にも興味を持ってもらわなくては。それはなぜでしょうか?
先生たちに聞いた人生を支える一冊
あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】灘/開成/聖光学院/渋谷幕張/豊島岡女子学園/フェリス女学院/広尾学園/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)
読書を通じて、生徒たちに「問い」を持ってほしい
ここで「問いを立てる」という今回のテーマに戻ります。
私ができるだけ国語嫌いを生まないことに注力する理由は、生徒たちに読書を通じて、問いを持ってほしい、問いを作ってほしいからです。 与えられた問題の答えを探すのではなく、自分にとっての問いを作ってほしい。そこで自分がどんな問いを立てるのかは、つまりは、自分がどこへ向かうのかということにもつながってくる話なのです。
では、この「問いを立てること」と「国語に関心を持つこと」はどんな関係にあるのか――。 実は、私、この10年くらい「問いを作る方法論」について研究をしてきました。事実に関する問い、探究に関する問い、議論を呼び起こす問い……問いにもいろいろありますよね。これを類型化して方法論化することは、可能といえば可能なんですけど、いろいろやってみまして、最終的に気付いたことがあります。
それは、人間というものは興味や関心がないものに対しては、問いを持たないということ。 つまり、「問いってこうやって作るんだよ」と、いくらこちらが教えたところで、興味や関心がなかったら問いは生まれない。
灘校の生徒を見ていても、数学や理科に関してはたくさん問いを作ります。探究心がくすぐられて自然に疑問が湧いてくるのでしょうね。 ところが、国語に関してはなかなかそうはならない。興味がなければスルーする。辛うじて食いついてきてくれるのは、自分の感覚と違うものに触れて「違和感」を覚えたとき。放っておくと気持ちが悪いんでしょうね。だから、そんなときだけは「なんでなん?」と問うてくる。
こんな状況だと、数学や理科と比べて、国語は問いを作る頻度が極端に少なくなってしまう。ですから、国語の教師としては、興味や関心を引き寄せる、あるいは違和感を呼び起こすためのヒントや材料をたくさん準備する必要があるのです。
興味や関心については、そもそも全員の心を引きつけることなど無理で、刺さる子には刺さる、刺さらない子には刺さらないときれいに分かれてしまうのが普通です。ですから、6年間に1冊でいいから心に刺さる本に出合ってもらえたらいいかな、と考えています。20年後くらいに「学校で読んだあれ、よかったなあ」と振り返れる1冊があれば。
一方、違和感についてはわりと共有されているので、提示する素材さえ選べば多くの生徒の問い作りにつなげることができます。
そのために私がやっていることは、まず、生徒たちが何を当たり前と考えているのかをつかみます。そして、そこから逆算をして「なんでやねん?」と彼らが突っ込まざるを得ないようなことが書いてある文章を選んで教室へ持っていく。これ、読んでみようよ、と持ちかける。
そんなことを繰り返して、とにかく問いを作るチャンスをたくさん与えていくことが大切なのかなと思っています。
問いを、生徒から教師にするものに変えていく
とはいえ、生徒たちがなかなか問いを作れないのは、無理もないことなのかもしれません。従来の学校教育においては、問うのは教師であり、生徒は答える側でした。本当は、生徒たちは、問いを作りたかったんだと思いますよ。でも、問う場が与えられることはほとんどなくて、その状況に慣らされてしまった。
そんな中で、教師から生徒にするものだった問いを、生徒から教師にするものに変えていこうという動きがあります。
『たった一つを変えるだけ クラスも教師も自立する「質問づくり」』
(ダン・ロスステイン、ルース・サンタナ著、吉田新一郎訳/新評論)という本では、アメリカの「質問づくり(Question Formulation Technique)」という教育手法が紹介され、生徒たち自身による「質問づくり」を授業の中でどうやって進めていくか、具体的な方法が丁寧に説明されています。
教員向けの本ですが、生徒が読んでもいいし、子育て中の親の立場で読んでも面白いのではないでしょうか。
私自身が教員として授業の中で丁寧にやらなくてはと心がけているのは、生徒の問いを吸い上げる作業です。
せっかく持った問いを「どうでもいい問いなんだ」と引っ込めてしまうのはもったいない。問いって基本的に手持ちの知識や体験から生まれてくるものなので、1人で考えるのも悪くはないですけれども、複数人で考えることによって、自分が思いもよらなかった発想が出てきたりするんですね。それによって問いは集団の中で練り上げられて精度が高まっていく。
そもそも、みんなで一つの文章を読んだり語り合ったりするということが、学校という場の大きな特徴でもあります。だから、これは最大限に生かしたい。
そのために私がやるべきことは2つあります。
1つは、どんな問いを立てても否定されないクラス作り。誰のどんな問いも否定せず、ちゃんと受け入れながら、みんなでその問いを練り上げていける集団を作る。簡単なことではありませんが、これはもう全力でやらないと、せっかく生徒が作った問いを生かすことができないので。
もう1つは、1人で読むよりもみんなで読んだ方が楽しいものを教材として提示する。前回、前々回ご紹介した私の授業で読んでいる本はみなこの観点で選んでいます。
『たった一つを変えるだけ クラスも教師も自立する「質問づくり」』に話を戻しますと、教師って固定的な知識をシャワーのように与える存在ではもはやありませんよね。
走るのは生徒で、教師はちょっと背中を押すとか伴走するとか交通整理をする程度の存在。生徒が成長すればするほどそうなっていきます。半分泣き言になるんですけど、もうね、高2、高3になると誰も私の言うことを聞いてくれなくなるんですよ。
「先生、それ、感情的になってますよね」とか「先生のおっしゃっていることは、一見論理的ですが、他の方向から見たら全然そうじゃないです」などと言ってくる。
鍛えれば鍛えるほど、牙をこっちに向けてきて、痛し痒しというか、成長は喜ばしいのですけど(笑)。
教員も生徒と一緒に育つ関係性が教育の好循環
灘校で教え始めて10年になりますが、日々感じているのは、教師と生徒という立場の違いはあっても、教えるということは基本的に双方向の営みであるということです。
教壇に立っている私は、完全に利他(生徒のため)に徹しているわけではありません。生徒を映し鏡にして、これまで気付かなかった自分の姿を再認識したり、無意識に信じ込んでいた常識や考えの偏りに気付いたりすることができます。これは自分だけの楽しみではありますが、そうした利己的な部分も大切にしています。
というのも、未完成で未成熟な自分を肯定し楽しむ教員の姿勢は、これから多くの失敗や挫折を乗り越え自立して生きていかなければならない生徒にとっても、きっとよい影響が及ぶと信じているから。
こうした共に育つ関係性が、教育の好循環を生んだらいいなあと思います。
先ほど橋本先生の教育観を象徴する言葉「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」を紹介しました。
まるでことわざの「無用の用」を裏返したような言葉ですが、こちらは教育の文脈で語られている分、「教育の目標はなにか」という根源的な問いを私たちに提示します。
論理や合理に慣れ過ぎると、すぐに物事の「意味」や「価値」を自分で判断し、方法を考え、最短距離でそれを獲得しようとしてしまう。でも、そもそも教員が物事の意味や価値を自分で判断できるという思考こそが慢心の表れともいえるのではないか。
あなたが今正しいと思ってやっている教育は、生徒たちにとってどの程度妥当なのか――橋本先生の言葉は、こうした問いを日々考えさせてくれるのです。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/太田未来子







