韓国の精神科医であるキム・ヘナム氏は、子どもの頃の記憶がない人は、もしかしたら家庭環境をつらく感じていたかもしれない、と言います。自分の家族は仲がいいと思っていても、本当は違っていることもあります。新刊『 人間として最良のこと as a person 』から、一部を抜粋し、紹介します。
なぜか子どもの頃の記憶のない女性
「うちには何の問題もありません。両親も優しかったし、幼かった時は何の問題もありませんでした」。慢性的なうつ症状、時折爆発する怒りで精神治療を受け始めたLさんは、幼い頃の記憶について尋ねられるとこう答えました。
奇妙なことに、彼女には中学校より前の記憶がほとんどないと言います。「中学校は、まばらに思い出せるのですが、それ以前となるとほとんど思い出せないのです。たぶんたいした出来事がなかったからだと思います」
その言葉に私は慎重に言いました。「もしかして、それ以前の出来事を覚えているのがつら過ぎたからではないですか?」。彼女は口ごもりながら、家族は本当に仲が良かったし、特に記憶に残るようなことがなかっただけだと言い返してきました。
しかし、少しずつカウンセリングが進んでいき、記憶を抑圧していたものが解けていくと、幼い時にくぐり抜けてきたつらい記憶を、一つ、二つと思い出し始めます。いつも具合が悪く、憂うつそうだった母親、下の子が生まれたので母親の実家に送られた記憶、家にはあまり関心がなかった父親に対する恨みと恋しさ……。
彼女はなぜ中学校以前の記憶を思い出さなかったのでしょうか? 決して仲がいい家庭ではなかったのに、なぜ仲がいいと思っていたのでしょうか? 彼女は自分に問題があると思って私を訪ねてきましたが、自分の無意識に触れられるのを怖がりました。幼い時に負った傷に向き合う準備ができていなかったのです。
彼女は、何の力もなかった幼い頃の耐え難かった出来事の数々を、すっかり忘れてしまおうとしていました。心に負った傷による苦しみから解き放たれようと、記憶をすべて消してしまうことにしたのです。
そのうえ、彼女は「仲が良くない家」を「仲がいい家」と言い、記憶の歪曲(わいきょく)まで行いました。そこで彼女は望み通りに、幼少時は何の問題もない仲のいい家庭で育った子どもになったのです。しかし過去の傷はそのままです。
解決できなかった過去の苦しい記憶は心の中で美化されますが、どんな形であっても、いつの日か爆発して私たちを苦しめます。解決できていない過去が「未解決の経験」として残り、現在をむしばむのです。彼女の慢性的なうつ症状と怒りの爆発も、幼い時に負った傷が原因でした。
未解決の過去は現在をむしばむ
私たちの心の中には傷ついた子どもがいます。その子どもは、傷ついたことに誰も気がつかなかったり、治療してくれなかったりしたせいで、心の中に隠れてしまった子どもです。傷ついたら、その時のまま発達も止まってしまいます。それ以上成長しないのです。
心の中の傷ついた子どもは、絶えず苦痛から逃れようとしています。それで、過去の状況に戻って、傷を負ったことを完全に無効にしようとしたり、その状況を事実とは違った形で再現して傷を癒やそうとしたりします。私たちが無意識のうちに過去の苦しみを繰り返し味わう理由がそこにあります。
ですから、もしも似たようなタイプの人とばかり恋愛をして、同じような失敗を繰り返したり、恋愛をしたいのに、実際に恋愛をするとすぐに距離を取ってしまったりする状況が続くのでしたら、なぜなのかを考える必要があります。
繰り返し起きることが、心を傷つけられた過去の出来事と関連性がないか考えてみるのです。静かに心の声に耳を傾けてみましょう。どの過去がこれほどの不安と恐ろしさを与えているのか、幼い頃のどのような記憶が今のあなたに影を落としているのか、今心の中で泣いている子どもがいつ頃傷ついたのか、聞いてみましょう。
「普通の人」の定義は、少し精神的な問題がある人
「始めさえすれば半分やったのと同じ」という言葉があります。自分に問題があるということを知り、認めたことだけでもすごいことです。
この世に問題がない人はいません。すべての人がある程度の問題を抱えています。精神分析の先駆者であるフロイトが定めた正常の基準も「少しのヒステリー(a little hysteric)」、「少しの偏執症(a little paranoia)」、「少しの強迫症(a little obsessive)」があるものでした。つまり、誰もが過去の傷からは完全に自由になれないことを意味しています。
ですから、自分に問題があるということを恥ずかしがったり否定したりする必要はありません。ただ、そこから「自分の問題がどんなものかを知る」ことに進んでいければよいのです。
一歩前進するには、これ以上心の中の傷ついた子どもを見て見ぬふりをしてはいけません。何度も同じような苦しみを味わっているのであれば、その子どもが成長したがって上げている声だと気づき、つらい記憶から解放されるように手伝ってあげる必要があります。
その子が心から泣けるようにしてやり、どこがつらかったのか話せるようにしてやり、傷に薬を塗ってあげなければいけません。そうすれば、過去の傷が治るとともに、過去を手放せるようになります。
それができれば、今後もし同じような経験が繰り返されても、「今起こっていることは、あの時のこととは関係ない。ただ、私があの時のような恐ろしいことが起きるんじゃないかと怖がっているだけ。そして今の私は当時のように何の力もない幼児じゃない。だから、まったく同じ状況になっても、今ならうまく切り抜けられるよ」と言うことができます。
手足を縛っていた過去から解放されれば、そこでようやく現在の自身を見つめ、世の中を感じて、現在に生きることができるのです。この努力を怠らなければ、いつか感じるでしょう。苦しみがなくなり、傷ついた子どもが泣きやんで成長し始めたことを。
(翻訳=バーチ・美和)
現代人には、子どもと大人をつなぐ「あいだ」の時期がありません。昔は、若者がさまざまな大人に混じり、大人になるための方法を学んだり、メンターに教えてもらったりしていました。しかし、現代ではもうそのような余裕はありません。大人になれない人間は、豊かにはなれません。この本では、韓国で尊敬を集めている精神科医で、精神分析医でもあるキム・ヘナム氏が、豊かな人間とは何か、どうしたら幸せな人生を送れるのかを解説します。
キム・ヘナム(著)、バーチ・美和(訳)日経BP、1980円(税込み)


