2024年夏、五輪の祭典で盛り上がったパリ。その喧騒からやや東にずれた場所では、およそ230年前にサド侯爵がバスティーユ監獄で『ソドムの百二十日』を書いていた。ノンフィクション書籍『サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命』では、この問題作の流浪と、文学や手稿をめぐる強烈な人々などを描いている。この連載では、本書に関連するが詳しくは触れられていない、フランス史や文学史の印象的なエピソードを、翻訳を手掛けた中西史子さんと金原瑞人さんが紹介する。第三夜のお話は「禁書の世界」について。『サド侯爵の呪い』を読んでいなくても楽しめる内容です。[ナショナル ジオグラフィック日本版サイトより転載]
書籍『サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命』(日経ナショナル ジオグラフィック)には主題となったサドの『ソドムの百二十日』を筆頭に、『ファニー・ヒル』(ジョン・クレランド著、18世紀英国のエロティカ小説)や『我が秘密の生涯』(19世紀の匿名作家による性愛遍歴を赤裸々に描いた自伝風の小説)など、かつては公然と読むことができなかった作品がいくつも出てくる。当時は秘密裏に出回り、読んだら捨ててしまう人までいたが、『サド侯爵の呪い』はこうした作品の存在なくしては語れない。
というわけで、第3回は、禁書の烙印を押された作品についてお話しさせてください。
フランスでは、サドの本は禁書の扱いを受けており、暗黒小説が気楽に楽しめるはずの貸本屋でも、1825年にサドの『アリーヌとヴァルクール』と『恋の罪』は取り扱われてなかったそうだ。
『我が秘密の生涯』は『サド侯爵の呪い』にも登場するヴィクトリア朝の愛書家ヘンリー・スペンサー・アシュビーが書いたといわれているが、「作者不詳」で出版された。『我が秘密の生涯』には語り手の幼少期からの性体験が赤裸々に綴られており、世間体を考えて実名で発表することを控えたのだろう。そういえば、『ファニー・ヒル』を読んで興奮している場面もあった。ちなみに、『ファニー・ヒル』は『ソドムの百二十日』と同じく獄中で執筆され、アメリカで裁判にもかけられた作品だ。
19世紀後半のフランスは、エロティカブームの真っただ中にあった。禁書の扱いを受けた本はアンダーグラウンドで流通し、書斎の隠し戸棚の奥にしまいこんでいた蒐集(しゅうしゅう)家もいたという。やがてフランス当局は、取り締まりを開始し、出版人や書店主は公序良俗および公共の利益に反した罪で逮捕されるようになる。
隠語・婉曲表現の歴史
ヴィクトリア朝時代(1837年から1901年)の英国でも、性は危険なものとして捉えられていた。
『サド侯爵の呪い』でも触れられているが、エロティカ系の作品について話すときには婉曲表現が用いられ、たとえば、「いちばん上の本(top-shelf)」「道を外れた本(out-of-the-way)」「興味深い文章(curious texts)」「おふざけの文章(facetious texts)」といった表現が使われたそうだ。また、本のディーラーはかつて、エロティカの本をカムフラージュするために、古ギリシャ語で「秘密」を意味する“Kruptadia”という言葉を使っていたという。
そういえば、『あなたの知らない卑語の歴史』という、ニコラス・ケイジが進行役を務め、英語の代表的卑語を紹介するNetflixのドキュメンタリーシリーズがあるのだが、そこで「Dick(クソ野郎、ナニ)」という言葉が紹介されていたのは興味い。もともとDickはリチャード(Richard)のあだ名だったが、やがて「野郎」のように男性を指す言葉になり、さらに、1860年代には「ムチ(Riding Crop)」を指すようになる。その後、ムチが男性器に似ているといわれるようになり、そこから男性器をDickと呼ぶようになったそうだ。
余談だが、1960年代、国民から支持を得られなかったアメリカのニクソン大統領は、リチャード・‟Dick”・ニクソンと呼ばれていたという。ここからDickに「クソ野郎」の意味が加わったらしい。まあとにかく、性を直接的に指す言葉は禁句とされ、隠語が定着していったわけだ。
そうそう、ムチで思い出したのだが、『サド侯爵の呪い』にもあるように、サドは異常なほど「ムチ」に執着している。サドが父親に入れられたルイ・ル・グラン学院では当時、体罰の伝統が厳格に守られていたようで、教育の一環としてムチが使われていた。
鹿島茂著『パリ、娼婦の館』によると、フランスにおけるSMといえば、基本的にムチ打ちだそうだ。フランス、もっといえばヨーロッパでは、子どもの躾には基本的にムチが使われており、ムチを自ら使えない親のためにムチ打ちのプロまでいたという。こうした幼児体験で、ヨーロッパにはムチ打ちに快感を覚える男女が多いとまことしやかに言われているらしい。
とはいっても、サドが変わり者であることは間違いなく、今も昔も彼の作品が危険視されているのも事実だ。先日、デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』(1995年)を見返したのだが、連続猟奇殺人事件を起こした犯人の読書リストのなかに、サドの著書が含まれているなんてエピソードがあった。
また『サド侯爵の呪い』には、英国で起きたムーア殺人事件の犯人イアン・ブレイディとマイラ・ヒンドリーのカップルが登場する。このふたりは1963年から1965年にかけて、少年少女を惨殺し、遺体をサドルワース・ムーアの荒野に埋めたことで知られる。
この事件の裁判でブレイディが、サドの『ジュスティーヌ』や彼の生涯や思想に関する本を読んでいたと証言したことが注目を集めた。裁判のあと、英国はサドの全著作の出版および輸入を禁止し、以後、30年以上この禁止令は解かれなかった。ブレイディとヒンドリーに興味のある方は、エドワード・ゴーリーの『おぞましい二人』もおすすめだ。
日本のエロティカ裁判
エロティカの扱いは日本においても厳しく、「芸術か、わいせつか」の議論が長くなされている。特に有名なところでは、チャタレイ事件だろう。この完訳版が伊藤整による翻訳で1950年4月に出版されたが、同年5月には警視庁当局に目をつけられ、出版社の倉庫ばかりでなく店頭からも押収された。東京裁判所は、発行人に対し罰金25万円を科し、訳者には罰金10万円を科した。
それから時を経て、1996年に『完訳チャタレイ夫人の恋人』が出版されるのだが、そのときの訳者、伊藤礼が、裁判後に出版された以前の版(伊藤整訳)を確認したところ、なんの言及もなく原書から削除された箇所は10箇所あまり、ページ数にして70~80ページはあったと述べている。ただ、伊藤整はすでに他界しており、そのときの経緯は確かめようがないそうだ。
日本におけるサド裁判は、チャタレイ事件から3年後に起こった。サドの『悪徳の栄え』が押収され、裁判沙汰になったのである。このとき、訳者の澁澤瀧彦は有罪判決を受け、7万円の罰金刑を受けた。
ただ、澁澤本人はまったく意に介しておらず、話題づくり程度に捉えていたようだ。このときの裁判には、澁澤と交流のある大江健三郎、大岡昇平、遠藤周作などが証人として法廷に立ち、サドの文学性を熱弁して弁護したという。
『サド侯爵の呪い』の第13章「聖サド」では、サドは聖人か否かという問題に焦点を当てている。実際、さまざまな知識人たちがサドを擁護した。『サドは有罪か』を書いた哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、サドが個人の自由について重要な問いを提起したと主張しているし、なかには先駆的なフェミニストと考える人もいる。
ただ、『ソドムの百二十日』には残虐極まりないエピソードが盛りこまれていることも、その巻物をめぐって人生を翻弄された人がいるということも、紛れもない事実だ。そのあたりは、『サド侯爵の呪い』に書かれているのでぜひ。みだらな魅力をまとわせた禁書や奇書とうたわれる作品には、読者をまどわす力があるのだろう。
今回までの全3回で翻訳こぼれ話を書いてみて、あらためて、充実した内容の本だなと思った。『サド侯爵の呪い』のあとがきにも書いたが、サドの生涯だけでも書けばきりがないほどネタに困らないエピソードが満載だというのに、この連載でお届けしたような話がコンパクトに、しかし効果的に差しはさまれている。
『ソドムの百二十日』の巻物は安住の地を求めて長くさまよい続け、その先々で人々を翻弄した。最終的には、フランス政府によって455万ユーロで購入され、現在は国宝に指定されている。ここに至るまでの巻物の旅の過程は、ぜひとも『サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命』を読んでいただきたいと思う。どうか楽しんでいただけますように。
『ユリイカ 特集=サド 没後二〇〇年・欲望の革命史』(青土社、2014年9月号)
著者不詳、佐藤晴夫訳『我が秘密の生涯I』(ルー出版、1997年)
ジョン・クレランド著、吉田健一訳『ファニー・ヒル』(河出書房新社、1997年)
鹿島茂『パリ、娼婦の館』(角川学芸出版、2010年)
エドワード・ゴーリー著、柴田元幸訳『おぞましい二人』(河出書房新社、2004年)
現代思潮社編集部『サド裁判 上』(現代思潮社、1963年)
ロレンス著、伊藤整訳/伊藤礼補訳『完訳チャタレイ夫人の恋人』(新潮社、1996年)
www.lep.co.uk/lifestyle/raunchy-story-behind-lancashire-book-fanny-hill-which-sparked-police-raids-in-the-1960s-142137
bungaku-report.com/blog/2021/06/11-1023.html
www.jfsribbon.org/2014/08/blog-post.html
artandpopularculture.com/Kruptadia
[ナショナル ジオグラフィック日本版サイト 2024年9月5日付の記事を転載]
ジョエル・ウォーナー(著)、金原瑞人+中西史子(訳)、日経ナショナル ジオグラフィック、2420円(税込み)

